宴は順調に終わり、踊り子や楽師たちには宴で余った食事が供された。踊りの衣装に透けるショールを羽織っただけのリーンは軽食を二三口つまみ、度数の低い軽いお酒だけをもってさっさと自室に逃げ込んだ。
宴の直後はあまりほかの踊り子たちと話す気分になれないのだ。レイリアは別だが、レイリアはレイリアで宴の後は用事があって忙しいことが多い。
自室に戻ってみると、アレスが明かりもつけず寝台に腰かけていた。そばには、やはり宴で出されたものと見える果物を皿ごと持ってきている。
窓から差し込む月の光にアレスの屈強な体がぼんやりと照らし出され、ドアを開けた瞬間にリーンはその神々しさに言葉を失ってしまった。
アレスの薄い金髪は月の光を受けて淡く輝くようで、均整の取れた肩の筋肉や太い首などが、その淡い光にくっきりと縁どられて存在感を増している。
日中には気軽に触れている腕の隆起も、計算されて作られたような完璧さだ。
すっと通った鼻筋が少し狭い眉の間に通り抜けて、そこからすぐに優しくリーンを見つめる瞳がある。
「ーーアレス」
「リーン、遅かったんだな。なにかあったか」
「そうね、……ううん、なにも。軽くおなかが空いたから少し摘んでいたの」
「珍しいな」
「そうかな」
確かに言われてみれば、宴は終わる時間も遅く、美容のことを考えたら食べないことも少なくない。しかし今日は余計な考え事をしてしまったからか、どうにも空腹のほうが理性よりも勝ってしまったのだ。
大丈夫、運動はした。明日も頑張ればいい。
「アレス、お酒足りてる? 今日は色々な人に囲まれていたじゃない。軽めのものだけどもらってきたから、一緒にどう?」
瓶を掲げて後ろ手にドアを閉め、アレスに手渡した。暗い中目を程目てラベルを読み取ろうとするアレスに少しだけ笑いをかみ殺してしまう。
「明かり、つけなかったの」
「暗いほうが落ち着く。夜だしな」
「そうね、夜だけど」
つまりは億劫だったということなのだろう。アレスはそういうところがある、特にお酒が入っているようだし、きっといつも以上に、なおさら。
まったく世話が焼けるわ、と軽くリーンは肩をすくめる。暗い中、月明かりの差し込む部屋はリーンも割と好きな方だけれど、それは一人の時の話だ。踊り子という、夜に煌々と明かりのともる環境が仕事場でもあるからか、夜が明るいのはいつものことだ。にぎやかな管弦と人々のざわめきにあふれているのがいつもの夜だ。
だから、たまに静かになりたいときには一人部屋の中で明かりをつけずにぼんやりとしている。差し込む月の光でぼんやりと照らされると、余計なことを考えずにリラックスすることができる。
だが、アレスと一緒の時は別だ。
月の光に照らされたアレスは綺麗で、吟遊詩人が吟じる英雄はきっとこの人なのだと錯覚してしまうほど。美しさと神々しさと、とても武勇にたけた傭兵に向けるには遠い言葉のように思うけれど、なぜかそれが両立してしまうのがアレスなのだ。
それに、リーンの胸が高鳴ってしまう。
暗い部屋でアレスと二人きりになるのはアレスが押しかけてきたときくらいなものだ。その時はすぐに寝てしまうから、意識なんてしなくて済むけれど。
踊りが終わった後、まだ先ほどの宴の熱の引かぬ体で、少しお酒でも入れて眠りにつこうなんて不健全なことを考えている時に、月明かりの部屋で二人きりなんて。
リーンは窓もとにかけているランプに明かりをともした。古めかしいランプで、これはリーンがダーナの町を散策しているときに気に入って買ったものだ。何の変哲もない型だが、それが気に入っている。リーンのお気に入りの品のなかでは、珍しくリーン自身が買った物。
アレスにはもっと洒落たものを買えばいいといわれる。なんだったらすぐに買ってくる、という勢いで。
最近はグランベルの方のガラスを使ったものやガラスに模様が入ったもの、紙を使ったものなどいろいろなランプがあるものだが、リーンは頑としてこの古いものを使っていた。
ガラスと鉄でできた昔ながらのランプは、リーンが育った教会に置いてあったものに似ているのだ。
明かりのともしたランプは寝台傍の壁にかけた。白い漆喰の壁を伝うようにランプの明かりが反射する。
「少しは明るくないと、アレスの顔も見られないじゃない」
「確かにな、ようやく何の酒かわかった」
「わからなくってもアレスは飲むでしょ。お酒ならなんだっていいんじゃないの」
「まあな」
軽口をたたきながらリーンは杯を二つアレスに渡す。口元を緩めながらアレスはそれになみなみと酒をついだ。
「乾杯」
「かんぱーい」
受け取りがてらアレスのものと飲み口を合わせた。お皿に乗った果物を挟んでアレスの横に座り、杯をあおる。かすかに琥珀色の見えるお酒は、ダーナの名産の果実酒だった。鼻に突く香りほど甘さはない。飲み口は優しく、爽やかだ。
「ねえ、踊り見てくれたでしょ。どうだった?」
お酒に強くないリーンは、この程度のお酒一杯で満足できてしまう。一度飲みほし、空の盃をアレスに渡してそのまま後ろに倒れた。寝台での酒盛りはこれが一番の楽しみだ。
ほんわりといい気分で、楽しくなってくる。アレスが酒を注いだ盃を返してくれるので、しぶしぶ体を起こす。
「ああ、良かった」
「嬉しいな。アレスはいつもあたしの踊り見ててくれるんだもん。好きよ」
にっこりと微笑みかけると、アレスは一度眉を上げ、お返しだと酒を飲みながら唇の端を上げる。
「俺もリーンの踊りが好きだ」
「嬉しい。ねえ、何のお話をしていたの? 宴の間」
「ブラムセルが正式にジャバローを雇った。俺らはダーナの守護をすることになる」
どちらかといえば給仕の女たちと何の話をしたのか、と聞きたかったのだが、予想以上の答えが返ってきた。予想はしたが、まさか本当に、本当だとは。
「え、じゃあ、アレスずっとダーナにいるの?」
「ああ、そういうことになる」
「嬉しい、いつから?」
「今日から。住処は今ブラムセルが手配しているが、すぐに決まるだろ。それまでは城にいる」
わぁ、とリーンは小さく嬌声を上げた。いざ目前にやってくると、あまりの嬉しさに顔がにやけてしまう。アレスがずっといる、ダーナに、リーンの傍に。なんていいニュースだろう、なんて嬉しいことだろう。
何が変わるわけでないのは分かっている。ダーナの町にいるというだけで、四
六時中リーンの傍にいるわけではない。リーンにあてがわれているのはブラムセルの傍、つまりこの城の一室だし、ジャバロー率いる傭兵隊は城に近いどこかの館だろう。
それでも、もしかしたら一緒に食事をとることが増えるかもしれない、そうでなくともお茶を飲んだり、いや、毎日挨拶をするだけでも構わないのだ。
今日はいるのか、いないのか。いたとしても、またどこかへ戦いに出てしまうのではないかと不安に思いながら過ごすことはない。
守護をする、とはそう言うことだ。ずっとずっとダーナを守る。だからよほどのことがない限りアレスはダーナを離れることがないのだ。ずっといてくれる。
しかもしばらくは側にいる。同じ城内。住むには広いけれど、会うには近い。なんて嬉しい報せだろう。
リーンはそっと胸に手を当てた。
たとえ妹のようにしか思われていなくても、アレスが近くにいてくれる事実で、胸が高鳴ってしまっていた。
「なんだ、そんなに喜んでくれるのか」
珍しくアレスが声を上げて笑う。なんだか心の中を見透かされたような気がして、恥ずかしくて、わざと乱暴にアレスの肩を押した。
「何回言わせるの? もう、バカ。すっごく嬉しいわ」
恥ずかしくても、アレスの滅多に聞けない笑い声を聞けるのはいいことだ。アレスの声は低くて、でも笑い声は少しだけ高いので、幼いときはこんな声をしていたのかなんてくだらないことを考えてしまう。
「俺も嬉しい、リーンがそう思ってくれるのは」
ふとこぼれた言葉にリーンの頬がカッと熱くなっる。普段からアレスは優しいけれど、こんなに直接的な言葉をかけてもらうのはあまりないことで、浮かれてしまいそうだ。落ち着かなくなってしまって、杯を握りしめてモジモジ体を動かした。
リーンを見つめるアレスの目は優しい。赤みを帯びたランプの光を受けて、なんだかアレスの日に焼けた白い肌もうっすら赤く色づいている気がする。
しばらく優しいアレスの瞳を見つめていたかったけれど、恥ずかしくてリーンの方から視線をそらした。あんなにまっすぐ人を見つめるなんてリーンにはできない。それが好きな人なら尚更だ。少しだけ色づいて見えるアレスの顔を見ていたら、三日月の口元にキスをしたくなってしまう。
そんな想像をしてしまう自分が恥ずかしくて、ええい、となみなみ注がれたお酒を勢いよく流し込んだ。
少しだけ刺激のある、軽やかなお酒。
もっともっと顔が赤くなってしまったけれど、それがお酒の所為だと言い訳できるような気がして。ごまかせるような気になって。
「ーーアレス、もう、寝よっか! もう時間遅いし、ね。ここで寝るでしょ、わざわざ戻ったりしないわよね」
戻ってほしくない、もっと一緒にいたいのは本心だ。でもこんなに高鳴る胸が収まらぬまま隣で寝るだなんて、アレスに伝わってしまうのではないだろうか。
アレスも杯をグッと空けた。
「そうだな」
そしてリーンの手から杯を取り、リーンの頭を撫でた。大きな掌だ。少し重たくて、ゆっくりとした動作が優しい。
飛び出た横髪を耳にかけてくれる指先は太く、熱を帯びていて暖かい。
「髪を結んだままでいいのか?」
「ううん、下ろす。服も着替えなきゃ、踊りの衣装そのままだもんね。このままじゃ眠れない。アレスは? 着替え、大丈夫そう?」
「ああ、だが一杯水をもらってくる。リーンはいるか?」
「ありがとう、そうね。水差しでお願い」
わかった、とアレスは頷いて果物の皿と一緒に寝台から立ち上がった。リーンの部屋はさすがによく知ったもので、言わなくても皿や杯をさっと片づけ、水を取りに部屋を出た。
アレスが出たのを確認して、素早く服を着替える。装飾品を外すのは後でもできる。でも今は、無性にアレスの前で着替えるのが恥ずかしかったのだ。
寝巻は、いつものアレスの古着である。太ももをしっかりと隠すシャツ。もうリーンの匂いが染みついてしまっているが、初めはアレスの匂いがまだ残っていた。
アレスに包まれているようで、胸がキュウと締め付けられたような気がしたものだ。
踊りの衣装の皺を取り、綺麗に畳んでおいておく。焚火や煙の臭いがまだ染みついているから、明日にでも綺麗にしなくてはならない。とりあえずは余計な皺を作らなければいいだろう。
ざっと化粧を落とし、装飾品を外す。指、手首、足首、耳、首。頭の上で一つにまとめた髪の周りには特に多い。宝石や花、リボンで飾り立て、動いたときにどこからでもきれいに見えるように。
髪をほどく前に宝飾品を全部取っておかないと、後で大変なことになってしまうのだ。間違って寝てしまったら大変だ、宝石は傷つくし、頭は痛くなるし、髪の毛は絡まってぐちゃぐちゃだ。なかなか見つからないし出てこない。あんな大変な思いは一度やれば十分なので、リーンはからなず数を数えるようにしている。
しかし今日は一つだけ足りない。どこだろうと探しているとアレスが戻ってきてしまった。
「よかった、ねえ、一つ飾りがどこかに行っちゃったみたいなの。わかる?」
「ああ、髪に引っかかってるぞ」
なみなみと中身の入った水差しをリーンの肩越しに机に置き、アレスは飾りを外しにかかる。
いつも一つに括っているが、リーンの髪は長く、背中半ばにまで届いている。アレスの太い指が優しく一房を持ち上げ髪飾りを取ってくれている間、肌に触れることはない、かすかに伝わる感触が何だかむず痒くて口元が緩んでしまった。噛み殺そうとしても、余計に緩んでしまうので唇を軽くかみしめた。
「ほら」
「ありがと」
掌の上に飾りを落としたアレスは、不思議そうにリーンの顔を見つめている。何かあったろうか。お化粧が残っていたのだろうか。両頬に手を当て、アレスを見上げた。
まだ酔いが回っている、頬はとても暑かった。どれだけ真っ赤になってしまったのだろう。
「どしたの、アレス」
「いや……」
アレスは手の甲で口を隠した。笑っているのだろうか、目元が優しい。
「なぁに、お化粧でも残ってた?」
「残ってないし何でもない。ほら、水汲んできたから飲んで寝るぞ」
「はあい」
リーンは両手を差し出してアレスに水をねだる。仕方がないなという表情で肩をすくめて、アレスは水差しを手に取った。
「アレス、って、優しいね」
「何だいきなり」
綺麗な所作で水を注ぐ。カップをリーンに渡す手は大きくて無骨で剣ダコだらけなのに、リーンにとってはこの上なく優しい掌だ。何かと守ってくれて、気を使ってくれて、甘やかしてくれて。
「いきなりでもないけど、そう思ったの」
ありがとうと受け取って一口含む水は柑橘が一切れ浮かんでいる。冷たい水はきっと井戸で汲み立てだからなのに、柑橘をわざわざアレスは入れてくれたに違いない。たったそれだけで、口のなかがさっぱりと涼やかに感じる。
「おいしい」
「そりゃよかった」
ほろ酔いの体に、優しさがジンワリと染みこんでいく。
こうやってアレスが優してくれるのはリーンを妹のように思っているから。ちらりと盗み見るアレスは、まるでお酒でも飲むかのように水を飲む。カップの飲み口を上から摘んで、浴びるように。
妹のように思われていても、アレスがこうやってリーンにだけ優しさを向けてくれるのは幸せだ。これまでモヤモヤとしていたものが何だかストンと落ちた気がする。
妹だとしてもアレスがリーンのことを見てくれている、思ってくれている。それは紛れもなく幸せなことなのだ。
他に家族のいないアレスがリーンを妹だと、家族だと思ってくれる。それは紛れもなくこの瞬間、リーンが一番大切で特別だということなのだ。
リーンがアレスを好きなのは変わらないし。いつかアレスが別の視線でリーンを見てくれるようになるかもしれない。
そう考えるだけで胸が温かくなってくる。
水が一筋、アレスの口の端からあふれて顎へ落ちる。しばらくとどまっていた水滴は、トトッとアレスの胸元を汚した。
リーンはくすくす笑ってアレスの胸元の染みを人差し指でなぞってみる。張りのある筋肉が暖かさを伝えてくる。
ふふ、と笑みが声になるとアレスも少しだけ笑ったようで、喉の奥でくぐもった声が聞こえた。
アレスがリーンの手を優しくつかんだ。少しだけ残念な気持ちを隠して、リーンはアレスの指と指を絡めた。
リーンの指は細く、アレスの指は太い。びっくりするほど指が広がったのが楽しくて、笑いが止まらなくなってしまう。
「ずいぶん酔ってるみたいだな」
「アレスも酔ってる?」
すこしな、とアレスが答えたのがうれしくて、リーンはアレスの胸にもたれかかった。