夜は素直がいい


 低い音できしみながら扉が開いて、リーンは暗闇の中目を覚ました。寝ぼけ眼のままあくびを一つ噛み殺し、体を起こす。
 寝台から見える窓に月はかかっていない、とうに夜半を過ぎている。こんな時間にもかかわらず、城の一角にあるうら若き乙女の寝室に忍び込んでくる相手をリーンは一人しか知らない。
 長身で鍛え上げた体がのっそりとリーンに近づき、広げた両手の中に雪崩れこんだ。その重みに少しだけリーンがよろめき、太い腕が優しく支えてくれる。
 リーンは体を少し動かし、場所を空けると雪崩れた体は片膝を寝台に乗せてリーンの肩に額を載せた。大きな頭は少し熱を持っている。
 リーンは広い背中に片手を回し、片手で柔らかい金の髪を梳いた。
「んもう、どうしたの」
「……酔った」
「またぁ」
 深夜の冷たい空気と共に、汗とお酒、花が咲くような香水、白粉の匂いがリーンの鼻腔をくすぐる。
 髪を梳いていた手に余計な力が入って、リーンはわざと冗談めかして髪の毛を掻き乱す。
「また女の人のところにいってたのね」
「……」
「どうしたの、そんな顔して。なんてことないじゃない、アレスだって付き合いがあるんだからね」
 本心ではないが嘘でもない。今こそリーンの両腕に収まっているアレスが、リーン一人にとらわれるような存在でないことは分かりきっている。
 アレスの付き合いを責めるつもりは毛頭ないし、そんな細かいことでアレスに愛想をつかされたくないというのも本音だ。
 大体、リーンがアレスのことをどう思おうと、アレスにとってリーンはただの妹のような存在だ。こうして夜中にいきなりやってくるのも人恋しさであったり酔ったついでだったりするのだ。
 リーンが年頃の女性であることを全く分かっていないのだ。リーンがどうして深夜の来訪を嫌がらないのかなんて、まったく考えたこともないのだろう。
 アレスが喉の奥で低く唸った。
「ねえ、いいから寝よう」
 乱してしまった髪をもう一度梳きなおす。1日外にいただろうにアレスの金髪は絡まることもなくさらさらとあるべき場所に戻っていく。
「……わかった」
 アレスは一度リーンの首筋に額を擦り付けた。まるで愛玩動物のような行為が何だか愉快で、リーンはアレスの背を優しく撫でた。
 こらえていたあくびが飛び出す。
「あたし眠いわ……あしたは宴があるから」
「ああ、もう寝る」
「服、替えたら? 前に持ってきてた服そのあたりにあるわよ」
 もう一度飛び出したあくびをようやく手で押さえながら、リーンは部屋の隅をくるくると指さした。整頓されている部屋で一番物の多い場所、衣装ダンスのあたりである。
「いや、いい。寝よう」
「うん」
 返事をしながらもリーンは半ば夢の中にいる。アレスの手に誘導されるまでもなく、一人には広い寝台の右半分を開けてごろりと横になる。毛布をかけてくれるアレスの手を感謝を込めて触った。
 そしてふっと眠りに落ちた。



 アレスとリーンはこのダーナの町で知り合った。
 もともとリーンは教会で育てられた捨て子で、踊り子として生計を立てている。もっとも一人前と認められたのは少し前で、駆け出しの新人だ。しかし踊りに関しては天性の才能があると先輩踊り子から褒められることが多くなった。
 得意とするのは幅広の布を使った踊りである。端には先輩踊り子の勧めで可憐な音を奏でる鈴をつけた。
 まだ成長途中の細い手足は砂漠の町で育ちながらも白く、濃い目で誂えた布との対比が我ながら上出来だと思う。
 今はダーナ領主ブラムセルお抱えの踊り子の一人だ。
 もともと先輩踊り子のレイリアが口をきいてくれた。リーンは純朴であまり人を疑わないから、早いところ定着して働けるところがあったほうがいいと、意地悪をする踊り子も多い中でレイリアは親身になってくれる。
 ダーナお抱えの踊り子のなかでは、レイリアは一番の存在だ。
 美しく豊かな黒髪、エキゾチックに日に焼けた肌、メリハリのある豊満な肢体。踊りは優雅で大人の色気が漂う。しかし口を開けば正義を重んじ荒くれの男どもにも対抗する負けん気の強い女性だ。
 そして心に秘めた人がいるのだという、異国の騎士の方よとリーンにだけ教えてくれた。秘密の思いだから誰も知らないし、その人もきっと知らないわとレイリアは片目をつぶって悪戯な笑みを浮かべたけれど、レイリアの魅力に靡かない男なんて想像できない。よほど鈍いか不能に違いない、などと思ってしまう。
 リーンにとっては踊り子としても女性としてもあこがれの存在である。
 そのレイリアが引き合わせてくれたのがアレスだった。
 アレスは傭兵で、何度かブラムセルがアレスの所属する傭兵団を雇用している。今は拠点をダーナ近辺に置いているようで頻繁に顔を見せているが、以前は月に一度ふらりと顔を見せればいい程度だった。
 大きな人だ、というのが第一印象である。
 鍛えられた大きな体、それを包む黒い鎧。大きな体で乗ってもびくともしない大きな黒い馬。大きな剣。
 それでも顔は男の人だと思えないくらいにとてもきれいで、黒い兜に隠されていた金の髪が流れるように美しくて、そのギャップにびっくりしたものだった、
 レイリアの紹介で引き合わされた二人だが、アレスはそれからリーンを妹のように扱っている。もっともアレスから直接言われたわけではない。
 レイリアにリーンのことをよろしくと言われたアレスが、あったその日に「リーンを守る」と口にしたのがレイリアの琴線に触れたようで、くすくすと笑って言われたのだ。
「キョーダイね、ほんと」
 兄妹、なんて血縁のいたことのないリーンには、わからない。リーンの周りにいたのは育ててくれたシスター、一緒に育った同じ捨て子達。寄せ合って、守って、守られて。
 でもリーンはアレスを守ることはない。手助けすらできなくて、できることと言ったらこうやって、夜更けに訪れるアレスに寝台を貸すくらいだ。
 アレスに取ってリーンは、守るだけ。守るべき存在。少し手のかかる年下の少女。
 迷惑をかけるばかりなんだろう、きっと、アレスのためになりたいと思うけれど、そんなことができるとも思えない。期待されているとも思えない。
 仕方がないと納得することもある。アレスと出逢った時に、すでにアレスは二十歳に近かった。リーンはまだ十五にもなっていなかった。
 妹でいられるのも十分に幸福なことだ、というのもわかっている。ヘタに一歩を踏み出してこの大切なテリトリーを壊したくないのが本当のところだ。大好きだからこそアレスの傍にいたいし、アレスが大切にしてくれる「妹」の地位を壊したくないと思う。
 守ってくれるなんて幸せなことだ。窮地に陥った時に助けれくれるだけでも。ある意味では、アレスが気にかけてくれるだけで幸せなのだという人だっていう。
 アレスは美しさと強さから人気があった。踊り子のなかにもアレスと一夜をともにできるなら全財産をはたいてもいいと何度もアレスにしなだれかかる娘がいる。
 もちろん踊り子だけではない。町を一緒に歩けば年齢を問わずに女性はアレスの美貌にうっとりとした顔つきになる。
 おそろしく整った顔に、傭兵として鍛えられた肉体が付いてくるのだ。女性たちがうるんだ眼差しで魅惑の溜息をつくのをリーンは知っている。
 アレスももちろん知っていて、アレスは逆にそれを楽しんでいる。もっともアレスが実際に楽しむのは金で縁が切れる商売女がほとんどだということも知っている。
 夜遅くにアレスが町をうろつき、そこまで強くもないお酒に手をだしてリーンの部屋に押し掛けるのは、大抵がそういった女たちとアレスが楽しんだ後だった。
 もちろんリーンはいい気はしない。リーンだって実際は何度もうっとりとため息をついたし魅惑の眼差しで見つめた。もちろんアレスに気が付かれないようにだけれど、レイリアにはしっかりとばばれている。
 気恥ずかしくも思うけれど、アレスの傍にいてアレスを好きになるなというほうが無理なのだ。レイリアみたいに心に決めた相手がいる人くらいだ、あの魅力にあらがえるのは。
 でもリーンがその感情を表に出してしまったら、きっとこの関係は崩れてしまうから。アレスは結局、リーンのことを妹のようにしか、家族にしか思っていないのだから。リーンが下手に色気を出すわけにはいかない。
 いくらアレスがほかの女の匂いを纏って夜更けにやってきても、リーンは笑って寝ぼけながら抱きしめて、一緒に寝ようと寝台を開けるのがせいぜいなのだ。
 そのためにリーンの部屋の寝台は二人でも十分に寝られる大きさのものを設えた。
 起こされたリーンが再び先に寝てしまう。アレスは空いた寝台の右半分で、長身を少し丸めて寝るのがいつもなのだ。しかし朝起きるのはアレスのほうが早い。
 今朝もいつもと同じように、部屋の中である程度の運動を終えたのか、アレスは上半身を汗に光らせて、整った逞しい筋肉を朝日にさらして剣の手入れを行っていた。
 鍛えられた胸。綺麗に割れた腹。動くたびに形を変える腕の筋肉。裸なんて、目に毒だ。
 つい視線を外せないのは仕方がない。毎度の戦闘で磨き上げられた肉体はリーンの目を楽しませてくれる。
 だからといって、汗が引かないうちから剣の手入れをするのはいかがなものか。危なくはないのだろうか、滑ってしまったりとか、せっかく磨いた剣に汗が滴ってしまわないのかとか。
 少しだけ不安になったので、おはよう、と小さく声を上げて伸びをした。
「おはよう、リーン」
「相変わらずアレスってば起きるの早いね」
「ああ、習慣みたいなもんだろう」
「前は寝られるところでは寝るのが傭兵だ、とか言ってなかった?」
「十分によく寝た。短い睡眠で満足できるのも傭兵に必要な技だからな」
 アレスはリーンが体を起こすと素早く手入れ道具を片付けだした。シミのたくさんついた油布とか、用途のわからない小さな道具とか、それらは年季が入っていてアレスが大切に使っていることをリーンは知っている。
 道具を布でひとまとめにして、小さな袋の中に入れるとリーンのために部屋の中央を空けた。
 ゆっくりとリーンは布団を剥いで寝台を下りる。
 薄い掛布団は綿の織物で、鳥をモチーフにした模様が入っている。土に汚れたような緑の色はどこのものか忘れてしまったが、アレスの土産である。
 土産といってももちろん傭兵の仕事、つまりは戦いに行った先である。略奪品ではなく平和にも戦闘後の町で買ったという一品で、リーンは感謝していいやら呆れればいいやらわからなくなってしまった。
 なにかとアレスはリーンに物を買い与えることが多い。この布団だけではない、部屋の要所要所にあるものがアレスのお土産であったり、一緒に街に出たときにお金を出してくれたものであったり。
 最近は傭兵稼業でとても稼いでいるのか、割と値の張る宝飾品をポンと買ってくれたりする。正直に言えば踊る時に使う装飾品の類は、踊り子の稼ぎではおいそれと新しいものを買えないので助かっている。
 それでも、妹分に買うにしては値が張りすぎているのでは、と口にしてみると、リーンが喜ぶならいい、と男前の答えが帰ってきたことがある。
 アレスを満足させられるほど、可愛く喜べている自信はないのだが。
 それに期待してしまうではないか。素敵な宝飾品をもらうたびに、胸が高鳴る。それだけアレスにとって価値のある存在になれたのだと。結局はいつものように「家族だから」に落ち着くのだろうけど。
「ちょっと、見ないでよね」
 その掛布団を、見ないとわかっていながらアレスに投げつけ、脱ぎ捨てる寝巻はアレスの古着である。アレスにとっては小さくて着られなくなってしまったシャツであるが、小柄なリーンが着ると膝丈ほどに裾が届く。
 着ているものを一度すべて脱ぎ、生まれたままの姿になってから、寝る前に枕元に用意しておいた今日の服装に着替える。
 これまで何度も一つの寝台で共に寝てきたけれど、アレスがリーンに手を出すこともなくリーンの着替えを覗き見ることもない。
 たしかに商売女になれているアレスにとっては、リーンの未発達な体つきなんて魅力に欠けるのだろう。踊り子としての技術が上回っているからいいものの、そうでなければ凹凸の乏しいリーンの体はきっと男たちにとっては面白くもないに違いない。
 それでも少しくらい魅力を感じてもらえないものかと頑張ったこともあるが、どうにもうまくいく様子はない。
 一緒に寝るときに色っぽい言葉をつぶやいてみたり、しなだれかかったり、抱き付いてみたり。でもアレスはお得意の無表情か薄く笑みを浮かべてリーンの頭を撫でて「寝ろ」と一言告げて終わりだ。
 最近はそんな涙ぐましい努力もあきらめてしまった。反対に、レイリアに教わって女性らしい身体になるように胸の大きくなる体操やらマッサージやらをアレスのいない間にこっそりと行うだけである。
 効果は見ての通りだが。
 軽くため息をついて下ろしていた髪をいつものように頭の上で一つに括る。それから、先ほどからピクリとも動かない毛布をそっとつまんで声をかける。
「お疲れ様、さあリーンちゃんの用意が整ったわ」
「ああ、じゃあ朝飯でも食いにいくか」
 十分寝たといっていたのに眠っていたのか、しっかりと閉じていたアレスの目がパッと開いてリーンの目を見つめる。そしてにっこりと笑う。
 普段は不愛想を貫いているくせに、アレスは時々少年のようなかわいらしい笑顔でリーンを見る。きっとリーンを妹のように可愛がるからこそなんだろうけれど、ギャップに触れるたびに高鳴る胸を持つリーンなのだ。なるべく無自覚にときめかせるのはやめてほしい。妹の仮面をかぶるのだって楽じゃないのだとわかってほしいものだ。負けないように満面の笑みで返事をした。
「そうね。いつもの麦粥のお店でいい? 昨日ソファラの果物が手に入ったって、出してくれたのよ」
「ああ、もちろん」
 じゃあ行きましょ、とアレスの背中を叩くと、はいはい、と笑みをかみ殺したような返事が帰ってきた。


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