くすぶりしとなる 6

 

 ティルナノグに戻りついたのは、それから数日後のことだった。いつもの不安定なつり橋で川を越え、けもの道に見える細い斜面を登り、崖を通って隠れ里は存在する。慣れたはずの枯れた山や乏しい緑の中に流れる川、行き着く泉が傾き始めた陽を反射してやけにキラキラと光輝いて見える。橙掛かった夕日は、どことなくラナの髪の毛に似ていると思いながら、眩しさにスカサハは片手で庇を作った。
 暫く道ともいえぬ道を進み、山を越えるとようやく見えてくるのが隠れ里ティルナノグと呼ばれる集落だ。先ほどまでの枯れた山が嘘のように、少し色づいてきた木々の生い茂る森や拓かれた畑が見えるようになると、スカサハはようやく帰ってきたと実感がわく。それでも入ったばかりのここは別の集落で、スカサハたちの家はさらに奥にあった。
 家が見えるころには、先ほどまで眩しくスカサハの視界に入っていた夕日も、高くそびえるティルナノグの山の端に隠れてしまっている。薄ぼんやりと空はまだ明るいが、里全体をうっすらと影が覆う。
「もう冬だな」
 家の前のなだらかな坂でオイフェはつぶやき、馬の首を優しく撫でた。
「季節はいつだって足早に過ぎてしまう」
 スカサハは静かに相槌を打った。それほど長い期間ではないはずなのに、ティルナノグを発ったときから季節がいくつも進んでしまったような気がする。何年もが過ぎ去ったかのような。実際はそれほどではない、川の水はどれだけ冷たくなってしまったのだろうか。
「みなは元気でしょうか」
「問題ないだろう、シャナンがいる」
 オイフェは穏やかに笑みを浮かべる。信頼の証だと、しみじみとスカサハは実感した。幾つの戦いを越えて、オイフェとシャナンはこうも信頼できるようになったのだろう。ただ長く一緒にいるからではないと、スカサハには分かった。
 ゆっくりと馬の蹄が硬い土を踏みしめて少しずつ家に近くなる。炊事の煙があがり、夜の支度がすっかりすんだあの家がスカサハとオイフェを迎えてくれるのだろう。
 今日着くと知らないだろうから、みな、驚くだろうか。無事を喜んでくれるだろうか。
 スカサハはどちらかといえば家で帰りを待つ方だ。馬は得意ではないし、旅の経験も少ない。ティルナノグで出立を見送り、少なくなった人員で家とティルナノグを守るほうが得意だった。
 旅に出た今は、どうだろうかと思う。
 これから、セリス様が帝国との戦いに立ち上がれば長い旅になる。ここティルナノグも離れなければいけないのだとわかってはいるのだ。
 近いガネーシャへの往復の旅で、二人という少人数で、この長旅だ。セリス様蜂起の時にはどれだけの日数になるのだろう。イザークを出たことがないスカサハには未知の世界である。
 地図は、バーハラの悲劇以後特に貴重なものになったという。反徒を恐れてのことだろうが、詳細なものでなくても、残っているのは数少ない。イザークの地図はシャナンとオイフェが手を加えたものだし、グランベル帝国のものもオイフェが少年時代から大切にしていたという貴重品である。
 つなぎ合わせた大陸全土の地図は、オイフェとシャナンの部屋に飾ってはあるものの数度しか見たことがない。それでもグランベルの大きさに比べればイザークが小さく、その中でもティルナノグの小ささがひときわ目立って見えたものだ。全土で観れば、この里はたった一つの点にしか過ぎない。その点の中でスカサハたちは広々と過ごしているのである。狭さを感じたことは一度もなかった。
 グランベルまでの、バーハラまでの道のりはどれほどのものなのだろう。いったいどこを通り、どれだけの日々を費やして、スカサハたちは進むことになるのだろう。
 もしかしたらそのときに、ティルナノグにはもう戻れなくなるのかもしれないと思うと、この帰還がとてつもなく愛おしく思えてくる。
 家までの坂。迎える明かりが見えるというのは、嬉しいものである。もう夜の帳がしっかりと足元を隠し、馬の歩みもゆっくりだが、馬もスカサハもなれた道だ。目をつぶっていても家にたどり着ける。
「――スカサハ! オイフェ様!」
 迎えてくれた第一声はラクチェだった。驚きと、喜びが跳ね上がる声に現れている。
「ああ、戻ったぞ、ラクチェ」
 オイフェが手綱を一度引いて一気に坂を駆け上がった。スカサハは下りて、手綱を引いて馬と歩く。踏みしめる土の感触までもを、大切なもののように思うのだった。
 しばらくはスカサハの旅の話でもちきりだった。夕餉の支度が済んでいたため、出てきたのはいつもの豆の煮ものと硬いパンだった。エーディンと食事当番だったらしいデルムッドがひたすらに申し訳ないと口にするが、旅の簡易食が続いていたスカサハには驚くほど美味しく感じられた。
 次の日の夜に少し豪勢な食事が用意された。スカサハとオイフェの好物がそれぞれ食卓に並ぶのが、嬉しいような申し訳ないような照れくさい気持ちである。
 夕食の後、オイフェが旅のことを話した。堅苦しい話が中心だ。政治情勢、貴族からによる情報。ガネーシャ市内の帝国勢力について。スカサハが見聞きした以上にオイフェは情報を仕入れているのだと内心舌を巻いてはいたが、それ以上にセリスやレスターたちは騒めいていた。
 スカサハは昨日寝る前にみんなに話している。それでもこの騒めきである。なんだかこの騒めきすらも遠くに感じられた。
 天井を見つめる。小さなころから見てきた見慣れた天井にすら安堵を感じるのは不思議な気持ちだった。
「……スカサハ?」
 オイフェの話に耳を傾けていたはずのラナが、いつの間にか隣の椅子に腰かけていた。気が付かなかった。一瞬警戒して、すぐに脱力する。
「うん」
「大丈夫、何か、……考え事?」
 優しくラナが肩を撫でてくれる。その軽やかな重みが心地よくて、帰って来たものだとそのたびに実感する。
「少しね」
「そう。……話したい?」
 ラナはスカサハの顔を覗き見るように囁いた。オイフェの話を邪魔しまいと、まわりの誰にも聞こえないくらいの囁きは、そのまますとんとスカサハの胸に落ちる。
 ラナに話したいことが沢山ある。今回の旅の話。スカサハの親族かもしれない貴族の話。その眼差し。同じ国なのに全く違う匂いがする都市。泥で汚してしまったお守りの話。焚火と共に燃える胸の熱。怒り。剣を持つ目的と、自分の目的。
 話したいことが沢山だ。それ以上に、ラナの言葉が聞きたい。
 ラナの悩みをあれからきけていないのが残念だ、口惜しい、心残りだ、ああ、この感情をなんて言ったらいいのかわからない。あれからラナはどうなったのだろうか。シスターの勉強はどうなったのか、いざこざは、問題はもうなくなったのか。ラナは困っていないだろうか。いつも話を聞いてもらってばかりだ。もっとラナの話を聞きたい、ラナと話をしたい。ラナに話を聞いてほしい。
 旅で賊にあった。戦った。その話は、まだ誰にもしていない。オイフェはシャナンには話したのだろう。スカサハは誰にも話していない。まだそれは、自分の中でも折り合いが付けられていない。口にするのはためらわれた。
 様々な感情だけが胸の中にくすぶっている。
 スカサハは少しだけ悩んで、ラナの手に触れた。小さく優しく、温かい。
「いや、今はまだ、大丈夫」
 わかったわ、とラナはスカサハの肩に触れる手をそのままに、またオイフェに顔を向けた。その横顔をスカサハは見つめた。見慣れたはずの幼馴染の顔が、初めて見る顔であるかのようにも感じられる。ラナはこんな顔をしていたのだろうか。エーディンには似ていない、父親に似たのだというラナの横顔。
 スカサハは顔を正面に戻した。
 何気ない日常が素晴らしいものに感じられるのはこそばゆいが、それだけ旅の非日常が忘れられないということだ。イザークまでの道中、街中の空気、様子、会見、帰路。全てがまだ隣り合っているかのようにも感じる。向けられた侮蔑も、旅の高揚も、剣を伝わる他人の体の抵抗も。
 オイフェにはきっと、この感覚はすでにないのだろう。どこかに置いてきたのか、それとももともと持っていないのか。平然と今回の旅について話すオイフェは、これが初めての旅でもなく、あれが――帰路の賊すらも初めてではないのだ。戦いも、旅も、この暮らしも、オイフェにとってはどれもが日常なのだろう。
 いつかはスカサハもそんな日が来る。
 刃をつぶした剣で訓練を重ねていた日々は、もう遠い日のことのようだ。人の命を奪うことを恐れていた日々も。模擬戦で負けた日々も。
 今日おこった何事もない一日は、いつか別れを告げなくてはいけない出来事の積み重ねなのかもしれない。戦いは必ず訪れる。そのために今の日々がある。笑い合う日々も、何も成長しなかったと感じる日々も、盤上でこてんぱんにやられる日々も。それはたった一勝の為にあり、積み重ねる一勝のためにある。
 ラナがいつだったか悩んでいた失敗も、きっと打ち勝っているのだろう。そうでなければ、いつか打ち勝つ。
 いつかラナはたくさんの話をしたい。ラナに聞いてほしい話が沢山ある。忘れていくような日々も、未来の礎になる日々も、いつかラナに打ち明けるのだろうとスカサハは思った。
おわり

 

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