秋の日、枯れた山から吹き下ろす風が少しだけ強い日に、珍しくオイフェがスカサハだけをつれて外に行くという。
「すぐに支度ができるか? ガネーシャだ、そう遠くはない」
遠くはないとはいえ、すぐに戻ってこられる距離ではない。しかしオイフェに指名されるのはめったにないことだ。普段は頼み込んで旅に連れ出させてもらう。それだって、頼みを聞いてくれるのは一年に一度だってありはしない。
二つ返事でスカサハは準備に取り掛かった。初耳だったらしいエーディンも、あわててラナとラクチェに声をかけて旅の支度に取り掛かった。
旅慣れているオイフェは、常日頃身支度が整っているので直前の支度はすぐに済んだようだ。滅多にない旅の準備にてんやわんやのスカサハを一度覗きに来ては、シャナンの部屋で話をするからと引きこもってしまった。
準備が整ってくると幼馴染たちが次々と激励に顔を出す。
「ちえっ、今度は僕もいけると思ったのになぁ」
「セリスはダメだろ、だってガネーシャだもんなぁ、スカサハのほうが確かに適任だ」
エーディンから預かったと思しき雑多なものの入った袋を振りながら口を尖らせるのがセリスで、余裕な顔でたしなめるのがデルムッドだ。デルムッドは一番オイフェと共に旅に出ることが多い。反対に、少ないのはセリスだ。
「オイフェ様はセリスに過保護だよなぁ、いいにつけ悪いにつけ」
レスターは、スカサハがどこかに置き忘れていたらしい馬具を両手に抱えて机の上に置く。「ほらよ、これなしでどうやって馬に乗るつもりだスカサハ」
「スカサハは乗馬が下手だからな」
「うるさいデル、下手じゃなく慎重だと言えよ」
邪魔しに来たんなら戻れ、とわざとふてくされてみると、皆口々にあれを持ったか、これを忘れてはいないかと確認してくる。その度律儀に答えたが、セリスの「お土産は紐がいいなぁ、ガネーシャの糸は丈夫だって聞いたから」から各自勝手に繰り広げるお土産の注文は聞き流した。
オイフェとシャナンの話は盛り上がっているのか、スカサハが二人分の馬の支度をしてもなかなか出てきそうにない。ソワソワと落ち着かない今の気持ちでは、何の話をしているのかこっそり聞き耳を立てるデルムッドたちに混ざる気にもなれずに、厩の傍を所在なく歩き回っている。
聞き耳がばれて悪友が叱られる気配もなく、急げと言われた割には暫くこのまま待たされるようだ。どうせ聞き耳を立ててまで聞いている話は、オイフェが旅中に教えてくれるか、そうでなえれば帰ってからデルムッドに吐かせればいい。
落ち着かなくてはならない。
いきなり旅の出立を決められたことと、ここにきての二人の長話。どうにも落ち着かないままでは旅中に差し支えるだろう。平常心を取り戻すのは無理だと分かっているが、気を紛らわせよう、そう決めて坂下の川に向かった。
だいぶ風は涼しく、晴れていても多少の肌寒さはある。ガネーシャはティルナノグよりも暑いものの、冬へ向かう季節だ。暑いにも限度がある。再度支度の確認をしながら、あれならば防寒も大丈夫だろうと自身を安心させた。
川はいつもよりも水量が多かった。昨日遠くの山辺で雨が降っていたのかもしれない。上着と靴を脱ぎ、裾をまくった。桶もないので直接川に入り、顔を洗う。芯から冷えていく冷たさで、肌も心もきゅっと引き締まった。落ち着きなく浮かれていた気持ちもいくぶんか冷静さを取り射戻した気はする。早い鼓動は変わらないけれど。
服の裾を引っ張って顔を拭いた。太ももにまで触れる川の冷たさは心地よいがそろそろ感覚を失いそうだ。何度か水を蹴ってから陸に上がった。足を拭く布が暖かいと感じると、季節も傾いてきたとなんだかしみじみしてしまう。
「スカサハ、待たせたな」
坂を上がる最中にオイフェの声がして、スカサハは勢いよく返事をしながら残りを駆け上がった。家の前ではすでに皆が勢揃いしていた。
旅の前には、皆で見送るのが習慣になっていた。ほとんど旅に出るのはオイフェやシャナンが多かった、スカサハが送り出される側になるのはめったにないことである。笑ったり、少し照れたり、寂しそうな顔をしていたり。見送る側もずいぶんと恥ずかしかったものだが、見送られるのもまた気恥ずかしく何とも居心地が悪かった。
「皆には悪いが、先に荷の確認をしよう」
「はい」
オイフェの号令でスカサハは馬に括った荷をオイフェとともに再確認する。特には縄をほどき中身を見つつ、オイフェはふむと鬚を触って一度頷いた。
「いいな」
単純な言葉であったが、普段から甘やかさないオイフェの最大の麗辞である。スカサハが小さくガッツポーズをすると、即座にスカサハのくせに生意気よ、とラクチェが笑って頭をぐしゃぐしゃに掻き乱した。
「気を付けてよね」
「ああ」
「お土産楽しみにしてるんだから」
「はいはい」
「スカサハが戻ってくるまでに、あたし、シャナン様にたっぷりと稽古つけてもらって、スカサハなんかコテンパンにしてあげるんだからね!」
それを皮切りに幼馴染たちと出立の言葉を交わす。気を付けろよ、そっちもな、そんな何気ない挨拶がこれからの旅行きの興奮を誘うと共に、しくじればこれが今生の別れだという恐れを思い出させる。
旅と一言で言ってしまえば気楽なものだが、ここティルナノグにいるスカサハの幼馴染や育ての親たちは、皆、帝国軍に追われ隠れる身である。万が一帝国兵に正体がばれれば命はない。いや、旅に出た二人の命で済めばまだ安いものだ。郷の存在がばれなければ。被害が広がらなければ。それは最も避けるべきだと何度も教えを受けている。そうでなくとも、純粋に旅には危険が付きまとうもので、五体満足で帰ることが最大の任務であることは言うまでもない。一番それを理解しているのはエーディンで、大粒の涙がいつも頬を濡らす。
今回も例外にもれず、エーシンはスカサハの背にきつく腕を回した。
「十分に気を付けるのですよ。あなたの無事を祈っております」
ハイプリーストであるエーディンの祈りは何よりの旅のお守りだ。スカサハを覆い隠するようにエーディンの美しい金の髪が揺れて、ふと目を開けると、金の簾の間から不安そうに両手を胸の前て重ねたラナが待っていた。
「ラナが最後?」
「ええ」
エーディンから解放されると同時に離れていった温もりが少しだけ寂しくて、スカサハは軽く腕をさすった。
「特別なこと、言えないけれど……無事の帰りを待っているわ」
「ありがとう」
「それで、これ、持って行って」
握りしめていた両手を開くと、ラナの小さな両手の中には布の腕輪があった。生成りの帯にイザーク文様が刺繍されているだけのシンプルな腕輪である。両端には織り糸が付いていて、ラナは糸を両手で持って、どうぞ、と広げる。
小さな刺繍であるが、明らかにラナの手であることは一目見て分かった。
スカサハはラナに促されるままに左手を出した。少しだけ差し出す手を悩んだのは、剣を抜く右手ではラナのお守りが汚れてしまうような気になったからだ。改めて考えてみれば、剣を抜くのは右手でも、持つのは両手だ。
「どうしたの、これ」
オイフェに出立を告げられたのは数刻前のことで、それから作ったにしては完成度が高すぎた。刺繍の出来栄えも、布のかがり方も始末もしっかりとしている。
「実はね、……来るべき日のために、みんなの分のお守りを作っていたの。でも、今回のことを聞いて、先に、と思って」
「そうだったんだ」
ラナらしい話だが、それを聞いて思わず胸が熱くなった。ラナはスカサハの腕に合わせて紐を結び、取れてしまわないように、ときつく結び目を締め上げる。
「だってほら……スカサハが思い出させてくれたでしょう。みんなができないことを、わたし、やるんだって。はい、どうぞ。気を付けて行ってらっしゃい」
「ああ、ありがとう……」
スカサハは左手でこぶしを握り、天高く上げた。腕を飾る腕輪はすでにしっくりと馴染んでいる。もう一度ラナに礼をいうと、オイフェがもう行くぞ、とスカサハを呼んだ。