あなたとお茶を

セリス×フィー


 冷たい水に浸したカップをさっと洗っていく。水も有限の資源だ、城の中まで引くのだって人の手だ、いくら厨房のすぐ裏に清水が湧き出ているからって、そこで水を汲んでいないフィーはなるべく無駄にせず使うべきである。さっとすすいで、乾いた布巾で拭く。少し空気の冷たくなったこの頃には辛い作業だけれど、洗い物は結構好きなのである。何も考えずに作業できるからいい。ぼんやりしててもきれいになるからいい。終わった後にきれいになった食器を、元通りの位置に直すと少しだけすっきりするような気もする。少しだけ。
 それでも冷たくて、終わったころにかじかんで赤くなった指先を湿った布巾でぬぐってはあぁと吐息を吐きかけた。
「――お仕事お疲れさま」
「セリス様」
 珍しい声が聞こえた。軍の盟主様が厨房にいらっしゃるなんて、とフィーは一度慌てるけれど、セリスはいつものことだよと笑っている。なんてフランクで、何て自然体なんだろう。優しい笑顔は輝かしいのに。
「そういうセリス様、ずるいです」
「ずるい? そう、わかんないな」
 素直に首をかしげる辺りは年相応、フィーの一つ二つ上の青年のようにも思えるけれど、うっすら浮かべる微笑みは高貴さだったり腹黒さだったり、いろいろなものを読み取れる感じで、だからそういうところ、とフィーは思わなくもない。
 そういうところがどういうところで、だからどうなのかと具体的に聞かれては困る。全て感覚なのだ、なんとなくそう思うのだ。セリスのずるいところも、格好いいところも、なんだか隠していそうな所もひっくるめてセリスで、あこがれているのはフィーの勝手で。
 伝えきれない気持ちをまとめて、あいまいな表現なのである。
「片づけ終わってるんだね。残念。あと30分は早く来ないとだめだったか」
 頬に当てた両手で百面相を隠そうとするフィーを見つめてセリスは口を開いた。
「? はい、終わりました。でもセリス様、洗い物がまだあれば任せてください、終わったばかりなので」
 今度のフィーはガッツポーズである。ぎゅっと握った両手を、セリスの大きくて温かな掌が包み込んだ。
「だめだよ、こんなに指を冷たくしているっていうのに。フィーに無理をさせたくないな」
 思ったよりも長く太い指先でフィーのかじかんだ握り拳が解かれていく。セリスはタコのある指でフィーの掌を撫でる。わーお、と一瞬でフィーの頭はいっぱいいっぱいになってしまう。
 まさかこんな親密に。まさかこんなくすぐったくて、でもやめてほしくなくて、まさかこんな。どうしていいかわからなくて、少し身をよじった。
「……洗い物が、あるわけじゃないんですか?」
「ないよ。フィーとお茶をしたかったんだ」
「お茶を? 私と?」
 予想外過ぎて、思わずフィーは手をひっこめた。セリスが残された自分の手を呆然と見つめた後、フィーの顔に目を向ける。
「――いやかな?」
「いや、じゃないです」
 驚いただけで。
 驚かないほうが無理だろう。なぜセリスが? なぜ自分と?
 フィーからセリスにお願いすることはあるかもしれないけれど、まさかセリスからの申し出だなんて。
 まさか。なぜ。そんな。
「あ、いえ、セリス様、はい! はいじゃなくて、いいえっていうか、あの、喜んで。喜んでセリス様とお茶したいです」
 フィーは背筋をピンと伸ばした。セリスは耐え切れなくなったように軽く笑い声を漏らす。小刻みに動くセリスの肩と一緒に、フィーの胸の奥がトクトク揺れる。
「いま、今で大丈夫ですか? そうしたら、お茶、今沸かすので待っていてください」
「フィーが入れてくれるの? うれしいなあ。今でもちろん大丈夫。午後はこれから時間があるんだ。うん、ちょっと待ってて。お茶請けを何か見繕ってこよう」
 セリスはフィーの肩から腕にかけて一度撫でて厨房を後にした。ひらひらと振られる親密な手のひらが廊下の遠くに消えるのをじっと見送り、フィーはくるっと一回まわってから湯を沸かす。
 セリスの手つき。肩から腕を撫でたあの掌。何だか壊れ物を扱うように優しく、親しげではなかったろうか。温かさは変わらず、愛着があったのではないか。
 時々思うのだが、セリスはフィーに興味があるのだろうか。フィーはセリスに興味がある。興味がある、なんていうあいまいな言い方よりも、わかりやすくいえばあこがれている。より明確に言えば好きだ。
 好き。
 そんなあまずっぱい感情でいいのか、フィーの気恥ずかしさがそれを認めてしまっていいのかと警鐘を鳴らす。
 認めてしまったら二度と戻れないし立ち直れないぞと。
 でも今しがた認めてしまった。好きなんだ。好きなんだって。セリスを。好きだ。確かに、好き。
 腹をくくって自覚してみればなんて容易い事だろう。認めるのは簡単だ。あとは玉砕した時の覚悟さえ決まれば、怖いものなんて何一つない。
 でも、なんだか先ほどのセリスはフィーに気があるように感じられなかったろうか。
 だって、そうじゃなかったらなんでフィーに声をかけるというのだ。ほかにもっとかわいい子はいるし、頭のいい子はいるし、出自のしっかりしている子も……これは口を挟むには少々政治過ぎる問題だ。
 何も思ってない相手に、あんなに親しげに触るだろか。一緒にお茶をなんていうだろうか。
 言うかもしれない。セリスは優しいから。
 冷たい手を温めて、掌を撫でるだろうか。あんな壊れ物を扱うように肩を撫でるだろうか。
 それとも全部希望的観測だろうか。
 向かい合ってお茶を飲みかわしながら、フィーにしか相談できないんだ実は誰々が気になっていて、と恋愛相談を持ちかけられたりするだろうか。それともセティへの根回しを頼まれたりするだろうか。
 セティは、魔法では有能であるし頭もまわる、少し頑固なところがあるから、懐柔するなら妹から、はセティにはピッタリの戦法だ。
 片手鍋に張った水はふつふつと湧き始めている。そろそろ沸騰してしまう。フィーは慌てて茶葉の支度をし出した。手際が悪い、すでに手遅れになるのは分かっている。ほら、すぐに沸騰して、鍋から白い蒸気が上がる。
 そう、もう手遅れなんだ。
 フィーは認めてしまったから。どんな結果になろうとも、まあ、仕方がない、勝手な片思いは勝手に砕けるものなんだ。せいぜいそれまでを楽しむのが、片思いに許された行為だ。
 茶葉にお湯を注ぐ。湯気とともに広がるにおいを深く吸い込むと、セリスが楽しそうに厨房に戻ってくるのだった。