多少の野次が混ざった歓声が上がって、少しうとうとしていたナンナは目を開けた。じめっぽい控室の窓から、闘技場で片手剣をもった金髪の剣士が栄光を讃えられている。
ナンナは欠伸をかみ殺した。
少し待てば勝鬨と共に控室に入ってくる。
「お疲れさま」
眠気の残る、すこし滑舌の悪い出迎えは不評で、すぐさま唇を突き出された。
「おい、約束通り制覇したぞ。もっと喜べよ」
「おめでとう、アレス。ごめん、昨日の夜眠れなかったのが響いちゃったみたい。途中まではしっかり見ていたんだけどね、アレスが負けるなんて全く思わなかったんだもの」
それに控室は薄暗くて、気温が上がった外と比べてひんやりと気持ちがいいのも悪い。寝不足の体にはどうぞ寝てくださいと言われたも同然だ。だからできれば観客席で観たかったのだが、是非にとナンナを控室に連れ込んだのはアレスである
アレスはある程度納得したが不満は残るようで、うんだかああだかわからない相槌を返した。
まあたしかに、眠っていたナンナが悪いのだ。
預かっていたミストルティンをアレスに返し、使っていた片手剣を代わりに受け取る。以前ナンナが使っていた剣で、今は非常用だ。腰に佩こうとすると、少し変な音がする。よく見てみると柄の部分が少しゆるみが出ていた。このまま使い続ければ壊れる、というか今の段階で十分に壊れている。この剣で勝てるものか、とナンナ内心舌を巻いてしまう。
どんな剣でも勝てる、とアレスが吠えたのが始まりで、訪れる場所場所で必ず闘技場の連覇を狙っている。もちろんミストルティンを使わず、だ。そろそろ売ってしまおうかと思っていたナンナの壊れかけの剣が意外なところで役に立っている。実際ナンナ以上の腕を持つアレスがそう簡単に負けるとは思ってもいない。実際に、割と余裕で勝ったらしい。
それはそうとこの剣は捨てるか修理するかしないといけない。この状態で使うのはさすがにアレスも無謀と言わざるを得ない。
今回は無謀ではなかったのだが。
こんな状態でもアレスは余裕、闘技場では勝者は受けた傷の手当てを受けられる制度があるが、それすら使う必要がないという。万が一の時にとこっそり薬草を持ってきていたのだが完全に無駄になった。いいことである。
「おめでとう、本当に。すごいわね、さすがアレス!」
ぱちぱちと手を叩いて褒めると、だんだん機嫌がよくなってきたようで、帰り支度も早くなる。ザバザバと乱暴に顔を洗う水がナンナにはね飛ぶ。
「ね、この後、町でちょっとゆっくりしましょうよ」
水滴の冷たさに多少むっとしてしまうが、眠気覚ましにはちょうどいい。さりげなく拭いながら、どうせほかにすることもないんだし、という一言はぐっと飲みこんだ。どうにもナンナはアレスの前だと余計な一言が多くなる。喧嘩の元だ。アレスと喧嘩するのも楽しくて好きは好きなのだが、だからって余計な喧嘩はないほうがいい。
「気になるお店があるのよ。連覇祝いに奢ってあげるわ」
アレスは使い古した手巾で顔を拭き、ふん、と鼻を鳴らした。
「まとまった金は入ったからな。それくらい俺が出す」
丁度その時、金を抱えた闘技場の係りが控室にやってきた。
「な」
初戦からの報奨金を受け取らずにいたのだという。重みのある布袋に、ナンナは深く頷いた。
闘技場からそう遠くないところに目的の店はあるが、解放軍が拠点としている場所とは反対の場所である。腕を組みながら、半歩先を行きたがるアレスをナンナは誘導する。
「なんでこんなとこ知ってんだ」
ぼやきながらアレスは物珍しそうにあたりを見ている。あまり町に興味がないから、出回らないのだろう。闘技場以外でアレスが外に出るのは武器を修理に行くくらいだ。ナンナがこうして連れまわさないと部屋か訓練場くらいしか行かないのだ。会いたいときにはその行動範囲の狭さがありがたくなるけれど、もっと世間に触れたほうがいいんじゃないかしら、と勝手にナンナは思っている。
「このあいだパティたちと散策していたのよ」
ふん、とアレスはまた鼻を鳴らした。ナンナは気にせずに話を続ける。
「お菓子が有名なお店らしいんだけどね、お店の中でお茶と一緒に食べられる場所があるんですって」
ぴくり、とアレスの腕に緊張が走った。ナンナはアレスの顔を見上げる。頭一つ以上高いところにあるアレスの表情は、隣に並ぶと読み取ることが難しい。
「どうしたの?」
「……茶か」
「? ええ、お茶。どうかしたの?」
特段地方の名がつくお茶でない限り、グランベルで流行しているのはどれも似通ったお茶だ。通に言わせれば産地や栽培方法で味が変わるらしいが、そんな繊細な味覚を持っていないナンナには関係がない。
あたたかくて、茶色くて、透き通っていて、何だか香りがいい。そして甘いものとよく合う。友人からは淹れるのがうまいと褒められたこともあるが、ナンナ自体はお茶の味をそこまでこだわっているわけではない。ただ親が好きだったから、というだけで。
ナンナ自体はお茶が好きだというわけでもなければ、お茶に詳しいというわけではない。しかし飲むならばお茶、というくらいに常用の飲み物だ。
「あんま茶は好きじゃない。……酒にしないか」
ナンナはくるりと目を回した。お茶は果実水と並ぶ一般的な飲み物で、何かと口にすることが多いというのに。
「そういえばアレスはお茶を飲んでるところって見たことがなかったわ。嫌いなの」
「嫌いっていうか……」
どうにも覇気がない。「酒場がいい」
「……お茶を飲まなくていいから、甘いものだけでも食べない? それか買いに行きましょう。それからお酒を飲むならいいわ」
アレスは喉の奥でうなりに近い音を立てて、そうだな、という。ナンナもうなずいて、少し歩みの鈍くなったアレスを引っ立てるように店を目指す。
ナンナの口は甘いものを求めていたし、件の店でアレスとああだこうだと話しながらお菓子とお茶を楽しみたかった。内装もかわいいと聞いたのだ。お茶もお菓子も、買って帰るよりも店で食べたほうがおいしい気がすると、友人が言っていたのだ。そんな体験をアレスとしたいと思ったのだ。
でも、その願望がナンナのわがままだと分かっている。だからそれは精一杯の譲歩なのだった。せめても、おいしいというお菓子は食べたい。
「……なんでお茶がすきじゃないの?」
なんとなく、とか別にとか、どうせ曖昧な理由しか返って来ないのだろうと思いながら尋ねると、アレスは一度ナンナを見下ろして、深いため息をついた。
「……母がよく飲んでいた、気がする」
そしてすぐに黙った。
ナンナ半ば驚きを隠せずに正面を見つめるアレスを見上げる。アレスから母親の話を聞いたのは、二度目だ。一度目は例の手紙を渡したとき、そして今。
あまり昔のことを語らないアレスが漏らした言葉が、秘密を教えてくれるようでうれしくて、でもその内容を言わせてしまったことが申し訳なくて、複雑な気持ちをうまく消化できずに絡ませた腕に体を寄せた。