ダーナを出ることはリーンにとって世紀の出来事だった。一生この町で過ごすんだろうと思っていた。この町で、砂漠の中で、踊り子として。もしも踊れなくなったら、城を出て、そうね、何か飲食店でもやればいいんだろうか。そのためにお金も貯めていた。ちまちまと。本当にちまちまとしたもので、アレスの持っていたお金とは比べ物にならないのだけれど。
それも、旅立ちの準備で使ってしまった。
アレスもそうだと言っていた。解放軍がある程度用立ててくれるとはいえ、すべてをまかなってくれるわけでもない。個人的なものはあれこれと入用だし、ダーナの外に出たことのないリーンには、それこそアレスよりも用意する物がたくさんあった。
旅にはお金がかかるのねと、だいぶ侘しくなった布袋を懐にしまう。買った物は全部部屋に納めてもらうようにお願いした。なじみの店だからこそのありがたさだ。
ダーナの町でリーンは育った。この町で踊り子として身を立てた。孤児院も、踊りも、すべてがダーナに全てが詰まっていた。
解放軍に参加すると決めたことに後悔はない。でも、恐怖はある。
アレスが一緒にいることだけが頼りだ。
ダーナは砂漠の風の影響を受けにくいように、少し高台の平坦な大地に作られた町である。でも城の一角、物見の塔に上ると町の端を越えて砂漠までも見ることができる。
出立は数日後だけれど、落ち着いた時間がそれまでにまたとれるかはわからない。もう日が傾き始めたけれど、沈み切るまでは時間がある、
ダーナに二度と来られなくなるかもしれない。最後にと、リーンは物見の塔へ足を向けた。
石造りの螺旋を描く長い階段を一歩ずつ登っていくと、意外なことに塔には先客がいた。狭い空間に、どっかりと無遠慮に腰を下ろしている。
幅を取る広い背中をぐいと押しながら腕をまわす。
「びっくりした、なんでいるの」
アレスは口笛で返事をした。リーンが口笛を吹けないとばれてしまってから、アレスは時々こうやって意地悪をするのだ。笑いながら、リーンはアレスのかさついた頬を摘んだ。
「準備はできたか?」
アレスは意地の悪い笑みを浮かべてリーンの髪を掻き乱す。やめてよ、と笑ってリーンは塔の窓へと近づいた。少しずつ傾きかけた日が、高い砂漠の丘に差し掛かろうとしている。
「わかんない。いろいろ買ったけれど、それで足りてるのかもわからないし。わかんないことだらけ」
「俺が教えたろ。あとは行く先でどうにかなる」
「アレスは男。女のあたしにはいろいろ足りないのよ、例えば櫛とかね」
アレスに乱された髪を解いて指で梳きながらリーンは振り返った。アレスはなびいたリーンの髪を掴もうと一度手を伸ばす。宙を掠めたその手のまま、リーンの手首に触れた。
指先の硬い皮膚が滑らかな部分を撫でるのがくすぐったくて、リーンは目を細めた。
「……そうかもな」
「でも、助かったわ、とても。これからも」
もう一度窓の外へ目を向ける。暮れ始める空が少しずつ塔の下に広がるダーナの町を包もうとしている。端から端まで、すべて知った町。少しはずれにある孤児院から始まって、中央の城まで。リーンをはぐくんでくれた。リーンの知る世界のすべてだ。
広がる砂地の先をリーンは目を細めて眺めた。この先。これから知る世界の始まりの場所。
「どうした?」
「ううん、なんでも。綺麗に晴れてて、いい気分」
「ああ、そうだな」
アレスの指先に少し力がこもった。リーンは手首を翻してアレスの手を握った。大きくて暖かくて、リーンの手では包み切れないくらい。その大きさに安心しながら、ぎゅうと力を籠める。
「ねえ、お腹空いてこない? ご飯食べよ」
そうだな、とアレスは頷いて立ち上がった。