お使いは宿営地からほど近い町で、ちょっと多く貰いすぎちゃったお釣りを返すっていうだけの簡単なお仕事。解放軍はならず者の集団っていうわけじゃないからね、素行のよろしくない兵士たちが多い中で、地道に善行を積むのって大切、とまあ信じているのは育ての親の意向でもある。
お金を返した人にね、いまどきこんな律儀な兵士がいるなんてねぇいやだわぁ剣を持ってればすぐに略奪かと思っちゃうもんでねぇあんたたち何て言ったっけ解放軍そう解放軍の人たちって帝国の兵士たちとは違うものねぇまあ頑張りなさいよ、なんていませんう優しい言葉をかけてもらえばラクチェとしてはバツグンの心持ち。
わざわざ一緒にお買い物に行っていたラナたちと別れてひとりで走って戻った甲斐がある。
解放軍の草の根活動はこういう小さいところから始まるのよ、なんていい気分でゆっくり鼻歌なんて歌いながら戻っていたら。
ザッっと冷たい雨に降られた。
あっという間のこと。なんで気が付かなかったの、なんて自分でもびっくりするけれど、ちょっといい気になりすぎたみたい。
お空が陰っていたことにも気が付かなかったし、冷たい風吹いてたのかな、鳥の鳴き声はどうだったんだろう。突然の雨が降るぞ、なんていうお天気の変化は仕方がないけれど、そういう変化を細かく感じ取れるようにならないと今後は厳しいぞ、とシャナン様に口すっぱく言われてたから。
ぼんやりしすぎてたみたいで、雨に濡れたことよりも、お天気の気まぐれ変化に気が付かなかったことの方が、ショック。
暫く服が抜けるのもかまわず、ぼんやりと天に向けた掌に雨水がたまるのを見て。雲が広がる空を見て。あ、でもこの雲模様ならすぐに止みそうだ、と思ったところで、ハッと現実に戻った。
すぐ止もうがなんだろうが、まだ肌寒い季節。こんなところで雨に降られた体を冷やしてしまったら、体調を崩しかねない。
運のいいことに着ている服が少し分厚くて、降られてはいるけれどもまだそんなにしみこんでいない。さっと辺りを見渡して、建物がないけれど仕方がない、一番庇の大きな木の下にエイヤと飛び込んだ。
さて大樹の陰っていうものは、ザンザンと降る雨はとりあえずしのげるけれど、時々葉を伝って落ちてくる滴の威力が結構なものになる。
ずぶぬれになるのよりはいい、そればかりはしかたないなと思いながら、舗装されてないむき出しの土を水たまりに変える雨が止むのをじっと待つ。
こうやってぼんやりする時間、滅多にないことだけれどあまりラクチェは得意ではなかった。
何していればいいのかなって思っちゃうのだ。
ぼんやりする時間があるならぼんやりとその時間を楽しめばいいのだ、なんてラクチェに教えようとする人もいたけれど、ラクチェはどうにもせわしくなく動くほうが好きなので。
雨、で、どうせ止むなら。ここから宿営地までの距離を考えて。全速力で走って帰れば。あるいはそこまで濡れないで帰れるんじゃないだろうか。とか。
腕組して、ラナが聞いたら馬鹿ねなんて怒り出すようなことを考えていると、ばしゃばしゃと雨音と違う音が聞こえた。
顔を上げると、激しく叩きつける雨の中を走ってこちらへやってくる人がいる。
「――ヨハン!?」
自信は半々だったものの、見覚えがある姿だったからにはまさかと声を上げずにいられなかった。あまり役に立っているとはいいがたいマントをピンと指先ではね、こちらをうかがった顔は案の定の人物で。
「ああラクチェ、降りしきる雨ですら君の前では美しさを引き立たせる飾りにすぎなくなってしまう、緑の黒髪が瑞々しく映えて!」
「馬鹿、そんなことどうだっていいからこっちに来なさいよ」
わざわざ礼儀正しく、というやつなのか。さっきまであんなに雨の中必死に走っていたのに、ラクチェが声をかけたとたんに降りしきる雨の中脚を止めて深々とお辞儀をするものだから、ラクチェは慌てて天然の庇の中にヨハンを引き摺り込んだ。
いったいどうしたの、と聞けば、いやなに、降られてしまっただけだよ、とうそぶく。
「それよりもまさかラクチェがわたしのことを心配してくれるだなんて、そんな幸運がまさかこの身に訪れようとは!」
「心配なんて別にしてないわよ、雨の中立ち止まられたら濡れるでしょっていうだけ。それにあんなに急いでたみたいなのに、声をかけたから脚を止めさせて」
悪いと思ったのだ、とこれ以上は素直に口にできなくて、ラクチェは唇を尖らせてそっぽを向いた。
ヨハンが微笑むのが伝わって、なんだか無性に腹が立つ。
「それこそこの身を案じてくれたということなのだよ、愛しい人!」
ヨハンは両腕を広げて天を仰ぐ。そういう仰々しい、というか芝居がかった感じがあまりよろしく思えないのだけれど、それをヨハンに伝えてはいない。
別に、ラクチェがヨハンをどう思っていたって、伝える必要ないんじゃないかな、って。
別に、伝えたとしてヨハンがその芝居がかった感じをやめてしまったら、ラクチェはどうしちゃうのだろう、なんて。思っているわけではない。断じてない。
「いいからマントくらい脱げば、ビショビショじゃん」
「ああ、思ったよりも濡れてしまったな」
もともとの色が何色だったのか、と思うくらいには雨をすって色が暗くなってしまっている。帝国貴族の出身だから、ヨハンは身に着けるものがあからさまにいい生地のものとか使っていることが多くて。
雨も、ちょっとやそっとじゃ通さないような素材だったのに。
「ずいぶん遠くから走ってきたのね。そんな急ぎの用だったの」
ヨハンはマントを外してざっくばらんに絞っている。じゃぶじゃぶ水がしたたり落ちていく。過ごしだけ手を止めて、一瞬だけ、困ったような顔をした。
「急ぎと言えばそうだったけれど、今となっては急ぐことは何もなくてね」
これは何かの問答だろうか、それとも貴族のする洗練された会話っていうやつなのだろうか。問答なんてできる頭もなければ貴族の嗜みなんてものは分からない。もっとはっきり言ってくれればいいのに、と拗ねたくなる。
「よくわからないけど、どこからきたの? 結構距離があったみたいだけど」
降りしきる雨の中走っていたのだからそこそこの用事だとは思うのだが、まあ、本人が濁していることをわざわざ追求するほどでもない。
ヨハンは絞り切ったマントを丁寧に折りたたむ。
「……こまったな、我が愛しの君の前では私は隠し事ができそうにない」
「?」
ヨハンは濡れたマントを片腕にかけて、照れたように口元をゆがめて頭をかいた。
「いやなに、ラクチェが一人で町に戻ったと耳にしたもので、馳せ参じたのだよ」
妙に言葉の端々に生気はないものの、ラクチェはあまりに意外な言葉に一度では理解できなかった。
「あたしを、ええと、迎えに?」
「ああ、そうだとも」
「雨が降っていたから?」
ぽかんと空いた口が閉じられない。間抜けな顔をしているんだろうと思う余裕もなく、ヨハンの顔を見つめながら尋ねた。ヨハンの目は優しくて、でもやっぱり照れているようでいつもよりも歯切れがわるい。
「いいや。麗しい女性が道中一人だなんて、不用心にもほどがあるだろう。もっとも、愛しの君の元に馳せ参じる騎士にしては馬もなく姫君のマントもなく、なんていう片手落ちだからね。あまりに恥ずかしくて口にはできなかったのだよ」
暫く考えて、ようやく合点がいった。
「じゃあ、ヨハンは、あたしが一人だからって心配して迎えに来てくれたの?」
「そうだとも、麗しの君――もちろん君の強さは知っての上だよ、ラクチェ。君の強さを信じ、尊敬しているがゆえに、私は一人にはさせられないのだ」
にっこりと笑うヨハンは、すべて白状したからかどことなくすっきりした顔である。
すっきりしなくなったのはラクチェの方だ。なぜか頬が熱い。
迎えに。女一人だからって、あたしを。
戦場の死神と恐れられる双子の片割れである、ラクチェを。そんじょそこらの男になんか負けることはないと自負もあるし実績もあるラクチェを。
強さもわかったうえで、迎えになんか来て。
馬に乗れるくせに、徒歩で。結局雨に降られて。
意味の分からないことばかり。なんでよ、どうしてよって、本当ならつめよれば、単なる演技なのか、仰々しい貴族のしきたりに従ってるだけなのか、本当に本当の本心なのかわかるかもしれないけれど。
雨に打たれた頬が熱いから、ちょっと正常な思考ができないだけなんだろう。
熱い頬をヨハンに悟られたくなくて、両手を顔に当てて。
馬鹿じゃないの、とか、なんでよんな、とか言おうとしたけれど、口も動かないし満足に息もできない。
優しいまなざしでラクチェを見つめるハシバミの瞳が少し雨にうるんでいて、まっすぐに見つめる視線がまぶしくて。
顔をそらして、必死に紡いだ言葉は。
「……ありがと」
想った以上にかすれた声だけれど、きっとヨハンには届いているのだろうとラクチェはわかっていた。