夜の熱い息 2


 なるべく簡素な服装で。夜になるとだいぶ冷えますし、厚手のマントを羽織って。
 なるべくお兄さま――とデルムッドやラクチェたちに合わないように周囲に気を配りながら厩に向かうと、すでにアレスが栗毛の馬と準備万端でわたしを待っているのでした。
 待たせてしまったのはもちろん、わたしが支度をしていなかったからで。あのあと別に支度をしたせいで、すぐにでも出ようとしていたアレスに申し訳ないことをしてしまいました。
「ごめんなさい、待たせてしまって」
「……いや」
 小走りでアレスに近づくと、馬の首を撫でながら答えます。
 あら。
 そういえば、栗毛。
「今日はアレスの馬ではないの?」
「ああ」
 栗毛のこの馬は、アレスの愛馬よりも一回り以上に小さくて、少しだけ足の細い馬です。誰の馬、というわけではなく、軍の馬。みなで飼育し、皆で乗る馬です。
 背の高さも、アレスの馬ほどではないし一人で乗れるかしら。
「具合でも悪いの?」
 尋ねながら背に乗ろうとすると、アレスがひょいと抱き上げてくれました。
「あの馬では目立ちすぎる」
 黒騎士。黒獅子。そんな異名をとるアレスです。それは戦装束だけでなく、夜闇に溶け込むような美しい黒馬、アレスの愛馬も理由の一つなのです。
 美しく、大きな馬。
 たしかにとても目立ちます。あの黒馬にのるアレスは、鎧を身に纏っていなくても、ハッと人目を引くものがあり。
 もっとも、アレスが人目を引くのは馬に乗っているいないにかかわらず、なのですけれども。
 生まれ持った何か、なのでしょうか。
 神器ミルトルティンの正統なる後継者。ノディオンの王子。
 アレスは、この戦いが終わったら、やはりアグストリアへ――アレスの生まれた国へ戻るのでしょうか。その手に輝く剣を携え、お父さま譲りという金の髪をなびかせ。ノディオンの地へ、平定のために。
「いくぞ」
「あ、ええ、おねがい」
 アレスの言葉で現実に戻されました。や、とアレスは掛け声軽く栗毛の馬に合図を送り、暮れかかる夕闇を通り町へと、リーンの踊る酒場へと、わたしたちは向かいます。
 道中アレスはいくつか忠告してくれました。
 たとえば、あまり騒ぐなと。町はまだ、公式には解放軍側にはついていないのです。客の中にはどんな立場の人がいるかわからないから、あまり騒いで注目を浴びるのはよくないと。
 そうでなくとも、あまり治安がいいとはいえない場所です。
 いくらアレスが守ってくれるとはいえ、アレスの傍から離れないとはいえ、だからって四六時中一緒にいられるわけでないことは分かりますし。
 それに、アレスはきっと気が付いているのでしょう。
 リーンの踊りを見たいのはもちろん本当のこと。リーンの踊りの大ファンですもの、機会があるなら、ぜひ見に行くわ。それがわたしの本心です。それが第一の理由だけれど。
 でも。
 ちょっとだけ、興味があること。酒場。男の人たちの、夜の楽しみ。食べて、飲んで、騒いで。バカみたいな会話とか、喧嘩とか、そういうのに満ちている、って聞いた場所。
 ほんの好奇心なのです。リーンの踊りを見るついでに、そういう場所に、行ってみたいって。
 思ってしまうのです。
 この戦いが終わったら、わたしたちは、いずれは「立場のある」側に立ってしまうのですから。解放軍、民の側ではなく。帝国軍、施政者と同じ立場に。
 そうしたらきっと、見られないものがたくさんあるのでしょう。知れないものがとてもたくさんあるのでしょう。だって、いままで制圧してきた城の主の生活は、話で聞くだけでもわたしには理解できないことも多くて。
 料理も自分でしないのです。その片付けも。庭に美しく咲いた花を摘むことも、種をまくこともないのです。
 わたしたちのティルナノグの生活は、もしかしたら、お母さまには大変だったのかもしれない、と思いながら、でもわたしはそのティルナノグの生活がすべてでしたから。
 わたしが知るのは、民の、町娘と同じ生活のはずで。
 それが、もしかしたらこの戦いが終われば、一変してしまうと考えるだけで。
 怖いような気がします。すべて知らぬ状況へ行かねばならないことが。もちろん覚悟はあります、そう育てられてきましたらから。楽しみもあります。見知らぬ場所、見知らぬ環境。
 それでも、今まで過ごしていた環境で。今後、二度と知ることのできない場所があるかもしれないと思ったら。
 今のうちに、見ておきたい、知っておきたいと。
 思うことに、何の不思議があるでしょうか。
 もちろん、リーンの踊りが見たいのです。リーンの踊りを見に行くのです。それが今夜の、一番の目的。
 だから。
 その一番の目的を果たすまでは、わたしは、酒場になれたアレスの忠告は素直に聞きますし。アレスの傍から離れないわ、と心に強く刻むのでした。
 騒がないこと。目立たないこと。女一人だと思わせないこと。見知らぬ人から話しかけられても、愛想良くしないこと。
 それらにすべて、はい、と二つ返事で頷くと、ゆらめく灯篭の明かりはぐんと近づいて、久しく感じることのなかった「町」の匂いに包まれるのでした。


 暮れかかる時間帯だからでしょうか、煌々と火の焚かれた酒場は、町のなかで一番人の出入りのある活気あふれるお店でした。他のお店はもう店じまいを始めていました。きっと、酒場はここからが本領を発揮する時間帯なのでしょう。
 やはり、出入りする人のほとんどが男の人で。
 それでも、リーン達とは少し違う方向に露出が多く、あまり直視しにくい格好の女性陣もいました。お店の方かしらとアレスに尋ねると、眉間に皺を作って、目を細めて女性たちをにらみつけるように視線を一度送り。アレスの視線に気が付いて手を振る彼女たちを丸きり無視するように顔をそらして。
「そんなもんだが、気にするな」
 吐き捨てるようにアレスは言い放って、はぐれない様にでしょうか、わたしの腕をつかんで座れる席を探します。アレスの足は長いので、一歩がわたしの二歩くらいで、早足になりながら追いつきました。酒場のなかはあまり広くないのににぎわっていて、薄暗い室内に焚かれた明かりで煙たくて。
 アレスは割と迷うことなく、店の奥のほうへ進んでいます。腕をつかんでもらっていてよかった、一人なら、もつれそうになりながら、こんなにも素早く人のなかを進める気がしませんもの。
 と。
「アレスじゃないか! えっ、ラナもか!」
「デルムッド? スカサハも」
 店の一番奥、暖炉と明かりから遠く、壁に近く。少しだけ空いたスペースに陣取っていたのは、わたしの幼馴染たちでした。長身で目立つアレスを見つけたのでしょう、席を立ったデルムッドが、こっちにこいよ、と手を振ってくれていました。アレスの体に隠されていた、わたしが顔をのぞかせると驚いた声。
 アレスはふりかえり、わたしを一度見下ろして。軽く跳ねた眉が、ゆっくりと元に戻り。
「ああ」
 デルムッドに片手を上げて返事をすると、つかんでいたわたしの腕を放しました。道案内は終わり、ということでしょうか。すこしだけアレスも驚いた顔でしたから待ち合わせではないのでしょう。
 十人掛けくらいの大きなテーブルに、小さな丸椅子。囲っているのは解放軍の面々で、デルムッドとスカサハ、名前は知らないけれども顔を見たことのある剣士の人たちでした。あちらもわたしのことを見知っているようで、お互いにぎこちない会釈であいさつ。
 アレスは踵で乱暴に丸椅子を蹴り動かし、ドカリとデルムッドの隣に座りました。そのまま、立ち尽くすわたしを見上げて。
   座らないのか、はやく、みたいな、そんな顔。
 見つめ返して悩んだ後に、離れた場所にあって椅子をズルズルと引っ張ってアレスの隣に座ることにしました。それにしても、小さい椅子なのになんて重たいのでしょう、アレスは踵ひとつで動かしていたのに。重いということは丈夫ということなのでしょうけれども。一苦労です。
 アレスに習ってテーブルに腕を載せると、少しだけ肩が疲れてしまいそうな高さ。でもアレスにとっては低いのでしょうか、横に並ぶ背中は、いつもよりもなだらかに弧を描いていました。
「二人なの? お兄さまは?」
 とりあえず、座る席さえ確保してしまえばこちらのもの。というほどでもないですが、見知った顔があると少し気が休まるのか、知らずに緊張していたみたい、ほっと一息ついて大きなアレスの体越しにデルムッドに声をかけました。スカサハは、通り過ぎる店の人に要領よく注文をしてくれています。慣れているわね。
 薄暗いけれど賑やかな店内です、近い距離にいても声を張らないと届かない気がして。大きな声でデルムッドに問いかけました。返ってくる声も、大きく。
「いや、ラナが知ってるヤツだとあとファバルかな。一緒だよ。いまは知った奴がいるって席外してる。レスターはラクチェのとこに置いてきた」
 ああ、とわたしは頷きました。「ラクチェもリーンのお話聞いたの?」
「知ってた。ラクチェも、ってことは、ラナもその口なのか? ラクチェが行きたいって騒いで、レスターがそれを止めてる間に俺らが逃げ出したから、帰ったら気を付けろよ、ラナ」
 それにしても、とデルムッドは隣の椅子で澄ました顔で座っているアレスの脇腹を肘でつつき。
「まさかアレスがラナを連れてくるとはなぁ。帰ってラナのことを知ったらラクチェも怖いが、レスターも怖い。全部アレスに丸投げするからな」
「知るか、俺はラナに頼まれただけだ」
「知ってろ。レスター、ラナに関しては頭のねじぶっとぶから気を付けろよアレス」
 俺は知らないね、となんでだか楽しそうに、デルムッドは手元の杯を空にして「俺にも酒、もう一杯!」と大きな声。
「でも本当よ、わたしがお願いしたの」
「何言ってもレスターには無駄だって知ってるから、アレスさんに頼んだんだろう。ラナ」
 スカサハがさっそく届いたお酒を、わたしとアレスに配ってくれて。取っ手のない、背の高い杯になみなみとそそがれたお酒。すこしだけ気泡のはじける、濁ったお酒です。
「ありがとう、……まあ、そうね」
 スカサハから受け取った杯はひとつアレスへ。スカサハがすかさず飲みかけの杯を掲げ、デルムッドも空の杯を掲げました。わたしもそれに倣い、さっそく口をつけようとしていたアレスも。
「そういえば、ラナ、飲めるのか?」
 わたしがちびちびと口をつけているからでしょうか、一気に半分近くを空にしてからアレスが、騒がしい店内でもあまり声を張るつもりがないのか、顔を寄せて尋ねてきます。
 わたしはにっこりと微笑み返しました。
「ええ、まかせて」
「なんだ、ラナの話か。ラナはこれで酒強いもんな」
「ちょっとデルムッド、あんまり人聞きの悪いこと言わないでよね」
「おいおい、ただ強いって言っただけで、誰もスカサハよりも強いだの酒豪だの言ってないよ」
「デル!」
 途端スカサハに小突かれて、わざとらしく痛がるデルムッドにわたしはクスクスと笑ってしまいました。そしてまたそれぞれ談笑に戻ります。
「強いのか」
「デルムッドの言うほどじゃないわよ。それに、……スカサハが弱いの」
 わたしの言葉を信じてくれたのかどうかわかりませんけれど、アレスも喉の奥で笑ったようで。かすかな笑い声を残して、体を離してしまいました。
 少しすれば頼んでいた食べ物もやってきました。大きな平皿に入った豆の煮込み料理、黒パン。そこにアレスがお酒のおかわりをして、わたしも便乗させてもらって。大丈夫か、と問いかける顔ににっこり笑顔で返事をするのは、周りのにぎやかさの中では最高の会話のように思えてきました。
 そうか、と肩を竦めたアレスは、豆を薄く切った黒パンに乗せてかじりつきます。
 そういえば、軍の宿営地に残る人たちのために、と夕食の支度をしてきましたけれど、わたし自身は何も食べていませんでした。それなりにおなかは空いていて。
 あまり強くないお酒でも、すきっ腹には、体にはよくないものです。
 わたしにも、と手を伸ばすと、アレスはパンの上に豆を載せて渡してくれて。
「優しいのね」
「……?」
 片方の眉を上げて、アレスは言葉もなくもう一口、がぶり。
「くれると思っていなかったわ」
 むしろ、お皿を渡されると思っていたのに。わざわざパンに乗せてくれるとは思っていませんでした。というか、パンに豆の煮物を載せて食べるのはこれが初めてです。同じメニューは解放軍の食事でも出てきますけれど、別々に食べていましたし。
「ああ……リーンが、いつも」
 なんとなく、いつもやらない食べ方なのでお行儀が悪い、と感じてしまうのですけれど。
 横目で見るアレスは何ともおいしそうに食べていますし。デルムッドやスカサハたちも、アレスの食べ方に何も疑問を抱いていないようですし。それならば、わたしも。
 郷に入っては郷に従えといいますもの。
 えいや。
 おおきくがぶりと一口。
 食べてみれば案外おいしいもので、パサつく黒パンと塩味の強いしっとりした豆が案外いい調和です。なるほど、乗っけて食べる理由がよくわかります。これは他のおかずで試してみてもおいしいのかも、なんて。
「あら」
 そんなことを思って油断していると、だめですね。
 豆の汁がついた口の端を親指でぬぐっていたら、バランスを崩してしまって。パンの上の豆が、ぽろり。
 一つ崩れるとあっという間で、机の上にも服の上にも。ぽろぽろと。
「……何やってるんだ」
 少し呆れたような、笑いをかみ殺したようなアレスの小言。大きくて太い指がテーブルにこぼれた小さな豆を払って。
 アレスの背中の丸みがわたしにゆっくり近づいて、噛み殺した笑いが聞こえるような近さで。
 言葉はないけれど楽しそうな色を映す瞳が、何よりも雄弁に物を語ります。明かりからは遠い席なのに。こんなにも、薄暗い、店内なのに。
   服の上にぽとりと落ちた小さな豆を、太いアレスの指が、摘んで。
 きらきら、楽しそうな瞳。緩やかな眉。近づけば、こんなにはっきりみえるのね。
「もう、酔ったか」
 低い声。
 たった一杯よ。まだまだ、これからじゃない。リーンもまだ出てきていないのに。そんなことないわ。
 たくさん、言いたい言葉は浮かんできましたが。
 なぜか。
 アレスの指が、わたしの頬に近づいて。そっと、口の端を撫でていきます。付いていたのでしょう、湿った物――豆が、はがれる感覚。
 その間、ずっとうごけなくて。
「アレス、酒! ほら」
「ああ」
 デルムッドが二杯のお酒を回してくれるまで、アレスが受け取りに体を放すまで。
 わたし、酔ってしまったのかしら。だってほら、頬が赤くなっているのが、わかるんですもの。

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