一つずつ城を制圧して、帝国から町を解放して。この地方の要所の城を、あと一つ。そこを開放できさえすれば、トラキアを抜けてミレトスへと、足を踏み入れることになって。
それは、わたしたち解放軍にとっては少し浮足立つような、尻込みしてしまうような、複雑な感情。
一度も踏み入れたことのない土地でありながら、そこは紛れもないわたしたちの父母の国です。わたしたちの血の、その系譜の、流れの源。
そしてもしかしたら、わたしたちの、これからの未来が待つ土地。まだ何もわからないけれど。オイフェさまに、改めて集められて言い聞かされたことです。
これからの未来。これまでは、その少し前の未来のことしか考えていなかったのですけれども。帝国からの解放。そのことしか考えられはしなかったのですけれど。
その後のことを考えなさいと。わたしたち――解放軍の部隊長がほとんどを占める、聖戦士の末裔たる面々を集めて。自分たちの父母の土地へ赴くのか、それとも古里へ帰るのか。父母の土地はすなわち支配者として赴くこと。これまでとは違う立場に立つということで。
いつかはわたしもお父さまお母さまの国に行くのかと思ったこともありました。行ってみたい国です、ティルナノグでよくお母さまやオイフェさまからお話を聞いていました。お母さまの国、オイフェさまの――シグルドさまの国。そして旅をしたお国。美しく絢爛なアグストリア、白く雪の降るシレジア。
どれも見たことのない景色で、うまく思い浮かぶことのできないお国の様子で。ここまでに通ったお国もそうだったけれど。厳しい南トラキア、豊かな大地の北トラキア。灼熱のイード。ティルナノグ、イザークの北に位置する、険しい山々に囲まれた小さな隠里に住まい、セリスさまの蜂起までそこを出たことがなかったわたしにはどの景色も新鮮で。
知らないものを見るのが楽しくて、知るのは興味深くて。
だから、行ってみたいとおもったのです。お母さまの国、お父さまの国。見てみたい、知りたいと。
それが、単純なものではなく。後継者として、統治者として。赴くとは、そういうことだと。改めて知らされたのです。
ただの、旅行者の気分ではいられないと。立場のある人にならざるを得ないのだと。
散々、神器の後継者、なんて話しをしていたのに。後継者、とは、使えるというだけではなく。それを使うが故の責務を負わねばならぬと、すっかりと忘れてしまっていたようで。
もちろんそんな、とぼけてしまっていたのはわたしだけなのかもしれません。お兄さまはオイフェさまのお話の間ずっと顔色を変えることなく真剣な顔をしていらして。デルムッドは、少し不安そうな顔で。みな、それぞれの反応で。
話を聞いていたのが、少し前。
そこからだんだんと、何気ない会話の中で、これからの話が話題に上がることが多くなって。どこに行くの、お父さまの国はどこなの、行ったらどうするの。
皆浮き足立って、でも、やっぱり怖くもあって。
でもまずは、目の前のことをどうにかしなくちゃね、とラクチェはブンブン剣をふり、おいこら無茶はやめろ、とそれを受けるスカサハは困ったように笑って。
そんなラクチェたちを見れば、そうだ、まだ終わってはいないのだと身の引き締まる思いを抱きつつ。ふわふわと、今日も何だか浮き足立ってしまうのでした。
宿営地は町と少し離れたところになることが多く、今回も近くの町までは馬での距離。夕暮れになると木々を隔てて町の方角から炊事の煙が立ち上り、ゆれる灯火まで見えるような気がします。
城下町ではないものの、割と大きな町だそうです。湾に南北を囲まれ、ミレトス地方への要塞でもあるペルルークを眼前に控えた町は、ペルルーク程とはいかないものの立派な交流の要になっている、と斥候かわりに町を訪れたナンナが言っていた。
まだペルルークは帝国軍の手にあって、そこの恩恵を受けることはできないけれど。あの町なら、帝国にばれないように行えば物資の補給ができるかもしれません、という報告。
ペルルークへの制圧戦まではもう少し体制を整えて万全の対策を練ってから、とオイフェさまがおっしゃっていました。だから、必要なものをそろえて、そうして心身ともに整えて。
わたしは後衛として、救護班の代表として。必要なものは何なのか、それを仕入れるにはいくら、何日くらいかかるのか。それをユリアやパティ、救護の副代表と仕入れの第一人者と相談して。
ある程度の片がつけば目途も立って、でも目途が立ってもなかなか実現に移せずに。ぼんやりとしながら、出立に間に合うようにと祈るような気持ちで日々を過ごすばかり。
そうすれば考えてしまうのは先日のオイフェさまのお言葉で。
つい炊事の手も止まってしまうというもの。溜息なんかもついてみちゃったりして。そんなわたしに、ねぇ、と明るい話題をくれたのは、リーンでした。
まだ日暮れ前。目を凝らせば町の炊事の立ち上る湯気が見えるかしら。
リーンと別れて、炊事を終わらせて。
わたしは濡れた手を拭くのももどかしく、パタパタと足音をうるさくたてて宿営地を駆け回るのでした。
探すのは、アレス。お部屋にも、休憩所にもいませんでした。では。今日はどこにいるのかしら、と宿営地の配置を思い浮かべながらアレスの所属を考えれば。
騎兵。厩には、アレスの愛馬がすでに干し草を食んでいました。剣士。練習場になっている広場はどこだったでしょうか。先日ラクチェとスカサハに差し入れに行ったときには、ふたりとも、セリスさまのお部屋の傍の広場で始めてしまったから、後でしっかりオイフェさまに大目玉をくらっていたものです。そうおもえばわたし、ここでは剣の練習場に行ったことがないように思います。
でも、どうにかなるかしら。
大抵練習場というのはいつでも似た場所にあるものですし。それに。馬鹿らしい、なんて笑われるかもしれませんけれど。ふらふらしていても、会える。なんだかそんな、根拠もない、夢みたいなことを考えてしまうのです。
一人で想像して、ちょっとだけ笑ってしまって。耐え切れなくて、片手で口元を隠して笑いを殺すと。
ほら。
「おい、……何をしている」
とてもラフな服。シンプルな洗いざらしの上衣に、ゆったりとした下衣。手にはマントと、馬具でしょうか。いつも戦闘時に使っているものよりも質素なものです。
よかった、出かける前に、間に合ったのね、と。わたしはこっそり胸をなでおろして。アレスの裾を、しっかり、摘んで見上げました。
「……なんだ」
決して行かせはしないと。
わたしの決意を感じ取ったように、アレスは珍しく少しだけ怖気づいたように瞳を揺らしてわたしを見下ろして尋ねました。
「アレス、あのね。お願いがあるの」
何から言えばアレスが頷いてくれるのか、がんばって考えながら、わたしは言葉を選んでお願いをしなくてはいけません。
アレスが、頼みの綱ですもの。
「これからお出かけよね、馬に乗って。あの町へ」
アレスはいぶかしげな表情でゆっくりと頷きます。
「リーンにね、誘われたの。わたしも。一緒に連れて行ってくれない?」
返ってきたのは低い溜息でした。
「……リーンはなんていったんだ?」
ええとね。わたしは少し前のリーンの言葉を、なるべくアレスに受け入れてもらえるように選びながら伝えます。
物資の融通をしてもらうついでに、お酒の融通もお願いしたところ、その条件の一つでリーンが酒場で踊りを披露することになったこと。解放軍からの条件として、お酒の確約と、踊り子に対する身の保全と時間の制限。解放軍の面々も客として同席したいこと。
もちろん、大きな町とはいえ酒場、なんて普通女性が行く場所ではないというのは分かります。リーンやパティだって、そんなに行ったことがないわ、というくらい。二人とも口をそろえて、一人じゃいかない、同伴者――リーンはアレス、パティはファバル――が常に一緒じゃないとあんなところ行くものじゃないわ、まあ楽しいけどね、などというのですけれども。
お兄さまやデルムッド、スカサハたちが時折行っているのは知っています。お兄さまはお酒がお好きだし。ラクチェもわたしもお酒は好きだけれど、そういう場所で、というのは経験がないどころか、考えたこともなかったのですが。
楽しい、と聞いてしまうと。なんだか。
いえ、それだけではなく。
リーンの踊り。
純粋に好きなのです。宴で、戦場で。踊っているのはリーンなのに、踊る場所によって美しくと強くもはかなくも魅せるリーンの踊り。煌めく金の輪を、優雅に揺らめく薄布を、幻想へいざなうように軽やかな音の鈴を手に、白い肢体で弧を描いて。
あんなにも、美しい踊りがあったなんて。
知らなかったのです。感激してしまいました。一目で、大好きになって。
だから今回、見知らぬ場所、酒場、なんていう男性陣が主体の楽しい場所、で踊るリーンを。知らされて、行かないなんて言う選択肢はありませんし。
絶対に、お兄さまは連れてって下さらない。
スカサハやデルムッドにお願いしても、お兄さまにばれるから、連れて行ってくれないの、目に見えていますもの。
そうしたら、あとはもう頼れるのはアレスしかいません。
「ラナ、わかってるのか? 酒場がどんな場所か」
アレスは苦々しく眉をよせ、一度うつむいてから首を回し、前髪をかきあげました。きらり、とわたしを見下ろす瞳。
あまり詳しくは知りません、行ったことがないんですもの。でも知らないとは言えません、絶対に連れて行ってくれないもの。
こういう時に、とリーンが教えてくれたとっておっきの言葉をわたしは口にしました。
にっこり、かわいらしく笑ってね、とリーンの指導通りに。
「大丈夫、アレスが守ってくれるんでしょう、わたしのこと」
ぐ、とアレスが言葉を飲み込むのがわかり。
かきあげた髪を、もう一度。寄る眉根、額の皺。
暫く沈黙があった後に、深く深くアレスは息を吐くと。
「リーンか」
「?」
「リーンが、そう言えっていったんだろう」
お見通しなのね。認めて、わたしは一度頷き。
「でも、わたしもそう思っているわ。アレスが、必ず守ってくれるって」
迷惑かしら、と今度は素のわたしで。楽しい場所に、お荷物が付いていくことになるんですもの、申し訳なさはあるので少し目を伏せて。
「迷惑かしら」
ごめんなさい、でもね、と摘んだままの裾を軽く引くと、いい、とアレスの声。
「え」
「わかった、連れていく」
「本当、ありがとうアレス! 嬉しいわ!」
にっこり。アレスの顔を見上げると、青にも緑にも、光の加減で美しく映える瞳がわたしを優しくみつめて。しかたない、と言いたげに、でもなんだか少し優しい溜息。
軽く口の端に、笑み。
「そのかわり……離れるな」
低く、優しい声音に。おもわずわたし、言葉が詰まってしまって。
自分がどんな表情をしているかもわからない、わかることは、頬が上気していることだけ。
摘んだ裾を放す気になれず、もう片方の手で必死に顔を隠して。何度もうなずくのが精いっぱいなのでした。