再び目を覚ますと、まだ薄暗闇だった。先ほどからあまり時間がたっていないのだろうか。汗はまだかいているものの、すこし冷えたようで身震いがした。布団は、ああ、かかっているようだ。どうにか天井は回転を止めていて、しかし見慣れたティルナノグの天井ではなかった。そういえばあの隠れ里の家は木の造りだったとぼんやりと記憶が定かになってくる。ここはティルナノグではなかったのか。するとあの金髪は誰だったのだろうか。柔らかな掌が額の汗をぬぐってくれたような気がする。そんなことをしてもらったのは母さんにだけだ。ティルナノグでだけ。柔らかい掌、少し冷たくて気持ちのいい感触。滑らかな肌。
視界は回っていないが眩暈のように頭が回る。寝台に横たわっているのに、重たい頭を支えているのが辛くて、勢いに任せて右に振った。焦点が合うまでに少しだけ時間がかかった。
金の髪、自分の掌がどこにあるのかわからないほどの薄暗闇の中でも光を放つように美しい髪。記憶の中の母さんよりもとても短く、少し癖が強い。ナンナだ。呼びかけようとしてもうまく力が入らず、うめき声のようになってしまった。
「……レスター?」
寝台に顔を伏せていたのに、すぐにナンナは体を起こした。うん、と答えようとするが、頭は重いし声は上手く出ない。
「起きたのね」
鼻を鳴らすような相槌しか打てなかった。
「まだ辛そう。休んでいて、わたし、ここにいるから」
ナンナはそういって、腕を持ち上げる。ナンナの掌にくっついて自分の手が現れた。ナンナは右手を優しく両手で包み込み、祈るように唇に当てている。こんなところに自分の手はあったのかとおもう、不思議なことに柔らかな金の髪の光で照らされているように、ナンナの傍にあれば見えるようだ。しかし、自分の手だということは分かるが、あまり実感がわかないのはまだ石のように手足が重たいからだろうか。ナンナの唇の感触すらわからない。
でも、そうか。母さんだと思っていたのはナンナだったのか。優しい母、優しいナンナ。美しい髪に触りたいと思ったけれど、自分の手がどこにもない。いやちがう、大丈夫だ、手はナンナが握っていてくれている。ナンナの掌の中にある、あれが自分の右手のはずだ。
「ラ……には言ってあるから……薬湯もレスターの好きな……めるかしら……」
ナンナが包み込んでくれていた手を放すと、自分のものだというのに右手は視界からいなくなるし、やけに寒さばかり感じる。全身が汗ばんでいるのに寒気があるのは、ナンナが離れているからだろうか。
少ししてナンナは視界に戻ってきてくれた、何やら匙を近づけてくる。
「……?」
ナンナの声がして、唇に硬いものが当たる。思わず口を開けると、苦い味が口中に広がった。美味しくない。
「……、…………」
ナンナが匙を再び口元に近づけるが、これ以上はあんなに苦いものはごめんだ。断ろうと思って瞳を閉じた。
瞼を開けると今度は明るかった、部屋が優しい光で包まれている、そうだ、この色は知っている、ナンナの髪の色だ。明るい世界は自分が今どこにいるのかを教えてくれる。進軍途中の城の名前も今ならば言える。どこを見てティルナノグだと思ったのだろう。
全身を覆っていた不思議な気怠さはもうない。汗ばんではいるものの寒くもない、頭も軽い。視界も今までと同じだけ広く、右腕はきちんと肩から繋がって自由に指先まで動かせるし、動いた指先で感じるシーツの感触までもわかる。
しかしそこにナンナはいなかった。
たしかにナンナが横にいてくれて、この右手を握ってくれた覚えがあるのだが。何かを飲ませようとしてくれたり、話しかけてくれた記憶があるのだが。あれは夢だったのだろうか、ここをティルナノグだと思わせた何かが見せた幻だったのだろうか。疲れていたから、寝込んでしまったから、そんな夢を見たかったんだろうか。
大きく息を吸って、長く長く、天井に向かって息を吐く。右手がナンナの感触を覚えていないのは、そのせいだ。それだけは残念に思えてしまう。あんなに親密にナンナと手をつないだことはこれまでになかった。願望がそんな夢を見せただけだとはいえ、いや、本当に、残念だ。
しかし夢とはいえ、ナンナが出てくるとはなかなかにいい夢を見たのではないだろうか。あまり思い出せないが、それだけでいい夢だったような気がする。
だいぶさえてきた頬を風が撫でる。窓が開いているのか、少し冷えた風が心地いい。もう一寝入りしようと布団のなかで態勢を整えると、ノックの音が聞こえた。木の扉を三回叩く音。
「どうぞ」
答えると、のどから出た声はしゃがれていた。思いの他乾燥していたのか、咳まで出る始末だ。咳が出るとなんだか喉が痛くなるもので、起き上がろうと思っていたのに布団の中で丸まってせき込むだけで精いっぱいだ。
「大変、大丈夫? 水を……!」
駆け寄って背中を撫で、冷たい水を差し出してくれた声は、まさかのナンナだった。どうして、と尋ねようにものどが痛い。
「大丈夫よ、ゆっくりでいいから、ほら、お水。お薬じゃないわ」
そんな、子供じゃあるまいし。冗談めかして言いたかったけれど、そんな余裕は残念ながら生まれなかった。介助してもらってようやく体を起こし、グラスを受け取る。丸々飲み干すと体中にいきわたるのがわかる。もう一杯、と言おうとしたけれど、声を出すとまた余計な席まで出てしまいそうで、人差し指を一本立ててみた。
「あら、おかわり? 元気になったみたいね。よかった」
こんな雑な要求なのに、怒るでもなくナンナは少しうれしそうに水を注いでくれる。もう一度グラスを空にすると、ようやく今度は喉まで潤う手ごたえがあった。それでも恐る恐る声をだす。
「ありがとう、ナンナ」
「どういたしまして、だいぶ元気になったわね、レスター」
でも、まだ寝ていたほうがいいんじゃないから、とナンナ。大丈夫だよ、と言おうとしたけれど、疲れているは疲れている。十分に寝た気もしけれど、まだ眠れる気もする。
「あ、でも寝る前に薬湯飲んでおきましょうか」
そういってナンナは近くにあった器を持ち上げる。匙ですくって、差し出してくる。
「はい、どうぞ」
これは、なかなかに、恥ずかしい。夢で見たナンナではあるまいし、いや夢の願望ではあるまいし、もうなかなかに元気になったのだ。水も飲める。薬湯も、一人でのめるくらいには回復しているはずで。しかしナンナにこうして優しくしてもらえるのはそれこそ夢のようなシチュエーションで。
混乱する脳内が漏れ出ていたのか、心配そうだったナンナの顔が一瞬で赤くなった。
「あっ、ごめんなさいレスター、つい!」
「いや、実は……」
少し悩んだが、正直に言うことにした。「夢でもナンナにこうして薬湯を飲ませて貰って」
自分で飲めるよ、と両手を差し出す。しかしナンナは少し不思議そうな顔をしたまま、薬湯と匙を持つ手を動かさない。
「夢?」
「うん、恥ずかしながら」
「それ、夢じゃないわ。何度も飲ませてあげたわ、レスター」
にっこりと笑うナンナとは対照的に、きっとひどい顔をしてしまったに違いない。衝撃だ。いや何にショックを受ければいいのだろう、ナンナに看病させたことか、ナンナが看病してくれたことか。夢だと思っていたことか。ナンナとあんなに手をつないだことか。ナンナが自分の手に口づけしてくれたことか。あんまり実感がなくて覚えていないことか。
「……あ、りがとう」
とりあえず感謝をつたえる。ナンナにはこの混乱が、やはり伝わっているようで。
「夢だと思っていたのね。いいわ。レスターの風邪はだいぶひどかったんだもの。何日も寝込んだのよ、とても心配したわ。でもこうやって元気になってくれたから。覚えていなくてもいいのよ。……また、やってあげる」
そうして再び薬湯をすくって、匙を差し出す。
「はい、レスター」
素面でされると、こんなに照れるものなのか。物心ついてから母にだってされた覚えがないものを。優しい微笑みで見つめてくるナンナ。
そっと、口を開けた。
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