ぬくもり


 とても遅い夕餉になってしまいなした。
 わたしは、勝手にわいて出てきてしまう欠伸をかみ殺すこともできず、お行儀悪いとわかっていながらも片手で口元を隠しました。
 怪我人の病態が芳しくなくて、あれこれと手を尽くしていたらいつの間にか月が傾くような時間。冬に近づく空気は澄んでて、暗い夜空を切り取ったような月は半月、仄明るく城の廊下を照らしてくれます。
 戦闘中の非常事態、とはいえ小康期間でほぼ停戦中の今は、この時間に出歩く人なんていません。みな英気を養ってお休みのところ。
 わたしも、いつもはもうすっかり夢の中にいる時間です。だから、欠伸が。
 でも良かった。先日の戦闘で魔道書の直撃にあった兵士が、どうにもそれからの予後が良くなくて。
 時々いるのです。魔道書との相性なのか、その人の元々の性質なのか、術者との相性なのか、わかりませんが。杖の回復の利きにくい人。魔道書の攻撃が、癒えない人。
 もっとも杖は高価なものです。はっきり言ってしまって、万人の怪我に使ってあげられるわけではない。それでもセリス様は、一人でも命を助けたいとおっしゃってくれる。だからわたしたち後方支援も、限られたなかでたくさんの人の命が守れるように、杖や薬草を駆使しているのですが。
 ごく稀に、いるのです。どうやっても杖では癒せない傷。なんとなく予兆があるのですが、杖を使おうと思っても、力が跳ね返されるというか。
 ユリアの意見も同じでした。だから、その人に対しては杖を使えず。でも、酷い傷で、薬草だけでは足りず。
 どうにか峠を越えた、という実感があったのは数刻前。それから様子に変化がなさそうなので、もうひとり看病に当たってくれていた仲間に託して、わたしは遅い遅い夕餉を取ることにしたのです。
 ほんとうは、夕餉は何時間前だったのかしら。病室に詰めていたので、そんな感覚もわからなくなってしまいます。今看病してくれている彼女は、来る前に食べたといっていました。
 声をかけてくれた食事係に、遅くなるから火は落としておいていいわ、と告げたのはわたしです。食事だけ残しておいてと。
 そう。言ったのはわたしではあるのですが、それでも。
 人気のないくらい厨房に、ひっそりと置かれたお盆は少しだけ寂しいもの。冷たいお肉と冷えたスープ、乾いたパン。ちょっとだけ匙を浸して味わってみれば、冷たくてもおいしいスープですけれど。やっぱり冷たい。
 この夜半、聞こえるのはジンと静寂の音。床からそろそろと登る冷たさに、長いスカートのなかでこっそりと脚をすり合わせて。
 寒いとおもうとますます寒さが気になってしまうもの。それは人の心理として仕方がないのでしょう。意識したものは気になります。暗いとか、おなかすいたとか。寒いとか。
 悩んだ時間は、少しでした。心が決まると早いもので、なんだかんだと小さなころから頑固者だと言われ続けた私の性格なのでしょうか。すり合わせた脚をパパッと動かして、小さな鍋にお水を張り、火を。
 えい。
 費用対効果。経営。薪、燃料、竈のお掃除。セリス様、オイフェ様とレヴィン様のお顔がパッと浮かんではパッと消え、残る申し訳なさと罪悪感は、火の暖かさがごまかしてくれます。
 病人は、寒いお部屋なのに。
 置いておいてといったのは自分なのに。
 この時間まで放置したのも、全部私の所為で、それなのに、寒いからってこうやって勝手に、ちっちゃいとはいえ、火を起こして。
 指先を湯気で温めて、行儀が悪いのは百も承知で、足先も、そっとスカートからのぞかせて火で温めてみたりなんかして。
 自分のわがままを申し訳ないと思いながら、でも、頑張ったから、なんて。許されないわがまま勝手な理由で、いいでしょう、なんて。
 紅茶の一杯だけ。
 少しだけ大目に沸かしたお湯を、大きめのマグカップに注いで。ゆっくり一周させてから、また戻します。温かな空のマグカップだけでも、なんだかだいぶ癒されるというもの。秘蔵の紅茶をたっぷりと淹れて。
 立ち上る香りは、至福のひと時です。暖かくて、優しくて。

 起こした火のおかげで、部屋も何だか温まってきました。紅茶を入れてもまだ残っている火はもったいないので、スープでも、と悩みましたが、洗い物が煩雑になるのは面倒です。もう一度、水を張りました。

 もう一杯紅茶を飲むでもいいし、洗い物に使うでも、あ、そうそう。病室に持っていっても。
 さてこれで、どうあがいてもわたしは火が消えるまでは厨房にいなくてはいけない流れ。はじめはお夕飯をお部屋に持って行って、なんて少しは考えもしましたが、疲れていますし、暗いですし。
 このお盆、お夕飯と大きな紅茶のカップが乗ったお盆を両手に持って、暗くて寒い廊下をひたひたと進んで。暗く寒い部屋で。考えただけで、もう。
 起こした火のおかげで温かい厨房。まだ十分に暖気があるわけではないですけれども、それでも、火の力ってすごいものです。冷えてしまうのは惜しいけれど、それまでこの厨房にいなくてはいけないのは、嬉しいのです。
 作業用の椅子をずるずると引っ張ってきて、作業用の机に食事の乗ったお盆を置いて。隣に、暖かな紅茶。我慢できず、まずは舌が焼けてしまいそうな紅茶を、ふうふうと軽く吹き冷ましてから一口。
 暖かさが、胸の奥に、じんわり。沁みます。
 そういえば、疲れました。腰かけると、余計にそれが実感できてしまって。寒かった脚が、少しずつ熱を取り戻したからでしょうか。重たくて、沈み込むような感じ。
 いけません、このままでは寝てしまいそう。せっかくの紅茶も、暖かな空気も、無駄になってしまうところです。
 わたしは机に肘をつき、両手を組みました。お母さまからの小さなころからの教えで、お食事の前にはお祈りをするのがティルナノグで育ったわたしたちの日課になっているのです。

 手を組み、目を閉じて、心の中でお祈りを。
 お祈りの言葉は何でもいいのです。お食事をありがとうとか、怪我をした兵士が一命をとりとめたことに対する感謝とか。
 なんでも。




 はっと気が付けば、ポコポコとお鍋の中で沸き立つお湯の音。さきほどよりもぼんやりと暗く感じられる室内と、ひんやりと寒い足元になぜか暖かい背中。火の熱の伝わりが不均等なのでしょうか。
 机の上の紅茶はすっかり湯気がなくなっています。
 寝ていたのね。そんなに疲れていたのでしょうか。お祈りの最中に眠ってしまうなんて。
 どれだけ寝ていたのかしら、と紅茶のカップに手を伸ばすと、隣に人影。大きく気が付けば存在感のある影なのに、まったく気が付いていませんでした。思わず体を固くして、延ばしかけた腕を勢いよく胸元に引き寄せました。
 背後で、ばさりという音とともにすっと抜ける風。何事かと振り向けば床に投げ出された黒い……マント?
 そうだ、マントです。黒地に裏の赤い、案外地味なようで、目立つマント。よく見覚えのあるマントは、わたしの肩から落ちたもので。
「……アレス?」
 あなたなの、と隣の人影に声をかけると、少しだけ呆れたような声音で。
「何だそんなに、落ち着きがない」
 腕を組んで、少し眠そうな目で。見下ろしながら少しだけ眠たそうなアレスが座っているのでした。
 私と同じ、作業用の椅子。いつのまに。動かしていたことも、まったく気が付かず。どれだけ寝ていたのでしょう、なんだか恥ずかしくなってしまいます。
「ごめんなさい、いるって全く気が付かなかったの。びっくりしちゃったわ」
 とりあえず落としたマントを拾おうとすると、それよりも早くアレスの長い腕がヒョイと拾い上げて。
 一度軽くゴミを振り落して、またわたしの肩へ。
「ありがとう」
「……いくらお前でも、時間を考えろ」
 ええ、と頷きながら、いくらわたしでもって何だろう、と引っ掛かってしまうのですけれど。反論をするゆとりはないので、言葉に甘えてマントを首元でゆるく止めて、紅茶に手を伸ばしました。
 これは。完全に、冷えています。
「そうね。……アレスは、いつからここへ?」
「……そんなに経っていない」
 ではアレスが来る前までに、だいぶ、無防備に寝姿をさらしていたのかしら。まだ竈の火が落ちる前なのが幸いですけれども。
 竈。そうだ。
「アレス、寒くない? さっき紅茶を入れてね、火がまだ残っていたからお湯を沸かしていたの。まだお湯が残っていたら、もう一度紅茶淹れるけど、飲む?」
「……ああ」
 じゃあ、とマントが落ちないように押さえながら立ち上がって。鍋を覗くと、よかった、少ないけれど、アレスの分の紅茶は入れられそう。火はだいぶ弱くなっていますけれど、竈は小さいし、鍋も小さい。さっと小さなカップで紅茶を入れて、空いた鍋でわたしの紅茶を温め直します。
 味が悪くなるけれど、温かさがほしくて。
「お先にどうぞ」
 黙って受け取ったアレスは、座るとそんなに身長を感じないのです。いつもはもっと背が高かった気がするのにって。
 あまり見上げないで済む高さはありがたいもの。むしろ、作業用の椅子は普通のものよりも少し低めだから、アレスを私が見下ろすような高さで。
 いつもと違う、下にある、アレスの美しい目。
 ああ、これでもっと厨房が明るければ、と思うけれど。それはわがままな注文ね。
「ところで、アレスはどうしてこんな時間にこんな場所へ?」
「……水でも飲もうと」
 一口紅茶飲んでから、答えてくれました。
「そうなの」
 わたしはとうとう鍋がうんともすんとも言わなくなったので、紅茶をカップに戻すと、うん。人肌。飲みやすいいい加減です。
 アレスのお部屋はわりと厨房からは遠かったはず、お水を飲むならわざわざここじゃなくても、もっと近いところにお水を飲めるところ、あった気がしますけれど。
 もしかして、わたしが遅いのに気が付いてくれて。わたしの様子をきにしてくれて。わたしのために、わざわざ。
 なんて。馬鹿らしい、夢みたいな絵空事だとわかっていますけれど。
 こうやって、夜遅くに、会えるなんて。夢みたい。
 もしかしたら、今もまだわたし、ずっと寝ているのかしら。お祈りの最中に。アレスと会えるなんて言う夢みたいな夢。
 紅茶の人肌も、見下ろせるアレスの柔らかな金髪も、肩からかかるアレスのマントの重みも、でも寒い足元も、全部夢だとは思えなくて。
 でもいいんです、もし夢だとしても、幸せな夢だから。
 だからわたし、アレスに追及はしないでおくんです。どうしてもっと近くのところに行かなかったの、なんて言う無粋な真似は。
 にっこりとほほえんで、そうなのって、隣にいるだけで、幸せだから。
 ……わたし、もしかして相当疲れているんでしょうか。
「飯か」
「?」
「それ」
「ああ、ええ。わたしのお夕飯。食べそびれてしまって」
 マントを巻き込まないように気を付けて腰かけます。普段は羽織るとしても丈の短いマントですし、こんなに長いマントを羽織るのはめったにありません。それに加えて、アレスのマントは普通以上に長いですし。
 裾を踏みつけてしまわないように絡げて持っても、危ないくらい。きっと私の身長ほどにも長いんでしょう、このマント。
「食べないのか」
「食べるわ――食べる前にね、お祈りをいつもするの。お母さまの教えで。肘をついて、手を組んで。目をつぶって、で――」
 目はつぶらずに、やってみせると。アレスが少しだけ、呆れたような表情になりました。わかりづらいけれど、まざまざと。
 わたしは少し頬を染め、肩を竦めました。なんといわれようと、疲れがたまっていたのであろうと、不用心にこんな夜更け、火をかけたままの厨房で寝てしまったのは私の失態です。
 さて。さっきのお祈りは、お祈りに入るのでしょうか。まあいいわ、手を組んだことだし、いまさっとお祈りをしてしまえば。しないことに罪の意識はありますけれど、二度してしまっても、悪いことはありませんから。
「アレスはお夕飯、食べたのよね」
「ああ、だいぶ前にな」
「そう」
 もくもくと、それからは黙ってご飯を食べました。冷たいスープ、冷えたお肉。硬いパン。暖かな紅茶。隣のアレスはゆっくりと、熱々の紅茶を冷ましながらでしょうか、飲んでいます。
 そういえばわたしは、一人きりの食事をあまり経験していないということに気が付きました。ティルナノグにはお兄さまや母さま、ラクチェたち幼馴染がいたし。
 今は、一人で食べるほど時間がずれることはめったにありません。常に、誰かと一緒。

 看病の関係上、ずれることがあってもそれは同じ救護の仲間たちと食べましたし。
 会話ができるほど仲のいい相手が傍にいなくても、人が周りにいる中で、みんなと食事をすることがほとんどです。
 今日、今。

 アレスがいなければ、わたし、本当に初めての「一人のごはん」をすることになっていたんです。

 そう思うと。
 偶然でも、必然でも。アレスの気まぐれでも、優しさでも。一人じゃない、という事実が何よりもうれしくて。胸が熱くなるのです。
 食事を済ませて、残っていた紅茶も飲んで。アレスの空のカップと一緒に食器をさっと洗うと、アレスが部屋まで送る、と言ってくれました。
「大丈夫よ、ここは城内だし、あとは戻るだけだわ」
「いや、いい。ついでだ」
「そう、……嬉しいわ。アレス、ほんとうに、ありがとう」
 厨房で、一人になっている私を見つけてくれて。ずっと一緒にいてくれて。ありがとう。
 気恥ずかしいことですし、アレスには関係のないことです。でもそれがうれしくて、言葉には出せないで。微笑むだけですけれど。
「……いや」
 席を立ってしまったアレスの頭は、もういつもと同じ、とても高いところ。薄暗い、満足な明かりのない厨房では、アレスの柔らかな金の髪しかはっきりとわからないで。
 今アレスがどんな表情をしているのか、見られないなんて。なんだかもったいないわ、もっと、もうちょっと、傍にいられればいいのに。
 さっき、座ったアレスを見下ろしていた時。
 アレスの頭の上に、つむじが見えて。柔らかに渦を巻いて、金の髪が滑らかにこぼれていくのが可愛くて。少しだけ、撫でてみたくなったのですけれど。
 いつか、それだけの距離にいられればいいと思いますけれど。いまは、まだ。
 じっと、見えぬ顔を見ていたのがばれてしまったのでしょうか。アレスが少し怪訝そうな声音で。ああ、この表情は、いつも知っているものでしょう、きっと。そんな想像だけで、疲れも吹き飛んでしまうような気がするのです。
「……なんだ」
「いいえ。アレス、マント返すわ、寒いでしょう」
「着ていろ、部屋についたら返してもらう」
「……そう、いいの、ありがとう」
 首元でもう一度マントを合わせ直して。裾を踏まないように、両手で絡げて。
 アレスと二人で、会話少なく歩く廊下は、ぴんと張りつめ聞こえるのは二人の足音だけ。半月の少し心もとない仄かな灯りが包んでくれるこの夜が、寒いけれど胸の内がとても暖かくて。
 半歩先に行くアレスの広い背中を見つめて、届かないくらいの小さな声で、ありがとうと呟くのでした。