人ごみを歩くのは得意ではありません。
わたしは残念なことに背が高いほうではありませんし、わたしの生まれ育ったティルナノグはのどかな山里で、人ごみらしい人ごみはありませんでしたから。ティルナノグは集落群です、色々なところに旅をしていたお兄さまたち、スカサハを誘って冒険に出ていたラクチェと違ってわたしは集落の外に出ることはめったにありませんでした。
だから、こうして。
解放した城の、大きな城下町。人ごみと、賑わいのある市。こういうところが町場というのでしょう。いえ、城下町っていうんでしょうね。お城があるっていうだけでなくて。
賑わい。
すごいわ、と見上げてしまいます。
立派な城の塔、高くそびえる塀。大きな教会にそなえられた時を告げる鐘。たくさんの人々と、笑顔と、声。賑わい。
これまでもイザークで解放してきた主要な都市で、わたしは城下町を見るたびにこうして放心してしまうというか、あっけにとられてしまうというか。
どうしていいのかわからなくなるような、興奮。感覚。
いえ、どうするもなにも、目的地があるならそこに行けばいいということは分かっているのですが。足を進めて、歩いて、お店で何かを買って。食べ物を食べて。
分かっていても、ぼんやりと賑わいを眺めてしまうのは。初めてでもないのに、城下町に驚いてしまうのは。
やはり、ここがもうイザークではないのだと、町のあらゆる建物、人々を見るたびに実感してしまうからなのかもしれません。
ティルナノグを、イザークを離れ、砂漠に入り。もうここは、グランベル領。正確にはこれまでイザークもグランベル領ではありましたけれども、それは支配者がグランベル帝国だったというだけで。
ここダーナは、昔はグランベルとイザーク、レンスター三国の友好都市として栄えて、今は砂漠のオアシスとして栄華を極めていると。そうシャナン様から説明を受けていました。幼いときに行ったことがあるとシャナン様は一度呟いていました。
そのときからダーナはこんなにもイザークと違っていたのでしょうか。
建物外見も、中身も。町の雰囲気も、町の匂いも。なんだか何もかも、わたしの知る町とは違うもので。
これが、異国なのかと。これが城下町なのかと。
賑わいも、人混みも、活気も、さることながら。わたしはダーナの町にのまれてしまって。
ダーナの町を解放したのは暫く前で、セリス様やオイフェ様が、アレスさんやリーンさんといったダーナの町を良く知る人たちの協力を受けて解放後の処理を終えた、というのは数日前のこと。
これまでダーナから少し離れたところに拠点を置いて行動していた解放軍は、もうすぐ、ダーナを離れることになります。
その前に。
足りない薬草や食品や、とっておきの贅沢品、嗜好品や。お洋服や生活用品や。いろいろなもの。旅に欠かせない、でも旅の途中ではそろえられない、そんなこまごましたものをそろえに。
こうして、わたしはダーナ解放の時以来、二度目の足を運ぶことになったのです。
ダーナ解放の時は目の前のことにいっぱいいっぱいで。正直に言って、街並みや人ごみなんて見ている余裕がありませんでした。
だからかしら。沢山の人。変わった町並み。土埃の香りさえも全く違うもののように感じられて。
そうね。
人ごみにのまれてしまうというよりも、この町の様相かしら。様相、雰囲気、醸し出す空気。とりまく建物の様子や、売る商品だったり。そういったこまごまとしたものが、本当にイザークのそれと違うので。
でも、あっけにとられて建物や人ごみを眺めるだけなんてよくありません。過去、お兄さまやオイフェさまたちが旅に出られて――なにがしかのお土産を買ってくれたように。わたしも異国の地であれやこれやとお買い物をしないといけません。
そう思いつつ、まだ市のなかにも進めぬわたしは町の噴水の傍、人の足を踏まないか、どこを進めばいいのかと恐る恐る歩いてしまいます。
「きゃ」
さっそく。見知らぬ誰かにぶつかってしまうのはそそっかしいからでしょうか。見知らぬ少年、わたしよりも小さい、肩くらいまでしかない、十にも満たない少年です。栗色の髪、少しそばかすの浮いた頬に薄い笑み。
痛みよりも衝撃が体に走り、ごめんなさい、も言う暇なく。
あっという間です。見事なもの。ちらり、とお互い顔を見合わせて、それで少年は身軽に人ごみのなかへ――市のなかのほうへとスルスルと人ごみをかき分けて進んでしまって。
なるほど、この賑わいのなかを歩くのはああでないといけないのかしら。感心してしまいながら、ぶつかった腕をそっとさすって。がんばろう、なんて。ただの買い物のはずなのに、小さく握りこぶしで奮起しました。そのとき。
「おい」
頭上からの声です。この声。低くて、以前に聞いたことのある、少しだけ会話したことある声。
見上げると、青空に梳けるような金髪。陽気に反するように真っ黒のお洋服。陰になった顔は何とも言えぬ、渋い顔。
「あら、アレスさん。こんにちは」
どうしたんですか、と尋ねれば、しばらくの沈黙の後に。
「……ちょっとな」
リーンさんと待ち合わせでしょうか、それとも、武器屋?
ダーナで長いこと踊り子をしていたリーンさんも、今回アレスさんと一緒に解放軍に参加してくれることになりました。それで、リーンさん。拠点から離れるということで、衣装屋さんや宝飾品屋さん、お花屋さんとか、たくさんのお得意先を巡って今挨拶をしているんだそうです。
それと一緒に、注文していた品々が出来上がっていれば、もらってきちゃうんですって。
その数が結構なもので、運ぶ人手がほしいからって。アレスさんに白羽の矢が立ったということらしい、というのが、寡黙なアレスさんから何とか聞き出したお話。
どうでもいい、という表情と態度なのに、リーンさんのお願いは断らないんだろうな、というのがありありと伝わってきて。
そういえば初めてアレスさんと会った時にも、リーンさんを探していらっしゃいましたし。
リーンさんも、アレスさんが解放軍に参加するから一緒にてきてくれた、というお話を聞いていますし。
「仲がいいのね」
「何がだ」
「リーンさんと」
アレスさんは一度どこかにちらりと視線をやって、少しだけ眉を寄せて。あら、聞いちゃいけないことだったのかしら。まあ、聞いてしまったからには仕方がありませんけれど。
「……まあな」
ダーナの市になれていると思しきアレスさんがリーンさんのいるお店まで行くというので、わたしもご一緒させていただくことになりました。といってもリーンさんのお店とわたしも目的のお店は、当然違うでしょうから。私は人込みを歩く練習がてら、目的のお店を探しがてら。
はじめ、一緒に行っていいかしら、とお願いすると、アレスさんは青空を映して美しく青く見える瞳を、驚いたのでしょうか、少し丸くして。まっすぐわたしを見下ろすので、わたしのほうが驚いてしまうのですが。
「……もう、前みたいに荷物を持って、なんていいませんから」
そうでした、前に会ったとき。一番初めの出会いで、丁度いいから、なんて。焼いたお菓子と果実水と。たくさんあったからとはいえ、無理やり持たせたんでしたっけ。
すこしだけ過去の自分の行動、恥ずかしくなっちゃっいました。いえ、あれもお仕事の一環、立っているものはお兄さまだって使うのがわたしです。たぶん次があったらそうしますし、たとえそれがレヴィンさまでもそうしますけれど。
今回は、お仕事じゃなく。ただの休日の買い出しですもの。アレスさんにはアレスさんのやることがありますし、わたしの荷物を持ってもらうだなんて、そんなこと。たとえ、アレスさんのやることが、リーンさんの荷物持ちだとしても。
お願いはしません。うん。
「どこに行くんだ」
アレスさんは一度溜息をついて、一言。肯定なのかしら、それとも内容を聞いてから判断するのでしょうか。
「そうね、薬草と布を買っておきたいんです、布は包帯に使いたくて。あとできれば紐と、油」
それに加えて杖の修理もできたらしたいですし、わたしだって女の子です、新しい服も一枚くらいはほしいな、と思っちゃう。まあこれは必須ではありません。杖はこの間治してもらってからそんなに使っていませんし。薬草のほうが大切。できれば髪留めもほしいのですけれど、もう少し伸びたら紐でくくってしまえば首の後ろもすっきりしますし、いいかな、とか。
「わかった」
アレスさんはそのまま市に向かって歩き出してしまって。あら、これは、ついて行っていいのかしら。
「……来ないのか」
「いくわ」
そういえば、前もそうだったわね、なんて思い出すと。笑みが浮かんでしまう。ほんの何日か前のことなのに。
すこしだけ早足でアレスさんの傍までいくと。見下ろす繊細な色の瞳が、いぶかし気で。そうよね、こんな、いきなり頬が緩んでいたら、変な人に思われてしまいます。でも、なんだか、楽しくて。
「うふふ、どうかしました?」
アレスさんは一度黙って私をじっと見下ろして。
「別に。……行くぞ」
はい、と返事をすると、アレスさんはスルスルと、流石というか見事というか。慣れた足取りで、人混みの中を進むのでした。
慌てて追いかけて、一度アレスさんとはぐれたわたしは、人混みの中でもひときわ目立つ長身、青い空にきらきらと美しく透けるような蜜の髪色を目指して、何人かの人とぶつかりながら必死にアレスさんに追いつくのですが。
気が付くと、また、アレスさんとの間に人が入ってしまって。
わたしは確かに歩くのは遅いのですが、アレスさんがそこまで速いというわけではなく。むしろゆっくり、もしかしたらわたしの歩く速さに合わせてくださってるのかもしれませんけれども。
なぜか人に、邪魔されて。
これでは案内もあったものではありません。市を、店を見る余裕もなく。
道行く人を見ればいいのか、自分の足元を見ればいいのか、それとも先行くアレスさんの髪の毛を見ればいいのか。わからなくて。
「アレスさん!」
「……!」
ええい、ままよ。
背に腹はかえられない、というのは正しい言葉で。
わたしはどうにか追いついたアレスさんの、服の裾を引っ張って。
ピン、と伸びる黒い服。驚いて振り向くアレスさん。立ち止まるわたしとアレスさんに、びっくりしたのか、ぶつかりそうになりながらも華麗によけていく人々。
「ご、めんなさい。人ごみ、歩くのにまだ慣れていなくて」
こんな子供のようなまねは、わたしも恥ずかしいですし、きっとアレスさんも恥ずかしいのでしょうけれども。
大きな子供をつれてあるくだなんて。
でも。
こうにもしないときっとどうにもならない気がして。
田舎の出身だから仕方がないのです、とおもいながら、ああでもわたしはこれまでにガネーシャ、イザーク、もろもろ、たくさんの人混みのある街を過ぎ去ってきたはずなのに。
ダーナの混雑ぶりがおかしいのか。いいえ、わたしがきっと、これまでに好んで人ごみを歩かなかったから。
のんびりと、何もないところを歩くほうが好きだったから。
これまで、面倒くさいお買い物や、町での用事をすべてラクチェやお兄さまに任せていたのが、きっと間違い。
そのツケが今来たんです。仕方がない。
でも。アレスさんは。もちろんそんなことは知ったことではありませんし、きっと呆れているのでしょう、わたしを見下ろす双眸が、今どんな感情を表しているのか、私はよくわからず。渋い顔。寄る眉根。額の小さな皺。そういうのは、わかるんですけれど。
呆れられて当然、というのか、正しい反応。きっと。
アレスさんはゆっくりと沈黙を保ってから、首を一度降ってから口を開き――。
「おい」
ドン、という、背後からの衝撃が、ちくしょう、という押し殺した声の叫びと共に押し寄せました。あたたかい、人の体温が背中に押し付けられ。押されてそのまま、雪崩れるようにわたしはアレスさんにぶつかって。
前をアレスさん、後ろを見知らぬ少年に挟まれてしまって。
「ちくしょう、放せよ、おい、痛いって」
「うるさい」
わたしの背後でじたばたともがく声が何かと振り返ってみてみれば、あら、前にもぶつかった、そばかすのあどけない少年です。アレスさんに腕をつかまれひねりあげられて、自由になる体で精いっぱいに反抗して。わたしの体に、ボコボコガツガツと当たる拳、足。
痛いのですが、何よりも、気になるのが。
「わたしのお財布!」
「スリだ」
「スってねぇよ、拾ったんだよ! 落ちてたんだって!」
少年の手に、よく見慣れた小さな袋。あまり多くは入っていないけれど、これまで細々とためてきたお金。今日の軍資金が入った、わたしのお財布がしっかりと握られているのでした。
スリ。だなんて。そんな。
まさか。
気が付けば、先ほどまで歩くのが大変なほど、まわりにたくさんいた人が、今、わたしとアレスさん、少年を取り囲むように隙間ができています。
いつもこうなら歩きやすいのですけれど。そう思ってしまうのは、現実逃避なのかしら。相変わらずアレスさんは少年の腕をしっかりとつかんでくれていますし、少年はわたしのお財布を放さずに暴れて、わたしは挟まれて、背中が痛くて。
とりあえずお財布は返してもらわなくちゃ、と背中の衝撃に耐えながら握りますと、アレスさんがつかむ腕にさらに力を込めたのか、少年の悲鳴が一層大きくなりました。
「痛ぇ、痛ぇって! やめろ、放せよ、なあ! ほら、金は返すから、はなすから」
言葉通りに少年は財布をはなし、わたしは慌てて中身を確認しました。少ないながら、入っている金額は変わりがないように思えます。
わたしがほっとしたのを感じたのか、アレスさんが少し力を抜いたようで。するりとした身のこなしで少年が拘束から抜け出して。
「ばかやろー!」
「あっ」
あっという間に、人混みをかけて抜けてしまいました。見事な足取り、身のこなし。そんな、見送る状況じゃないのは分かっているのですが。
呆然としてしまって、ただお財布を握りしめるだけ。いいのか、といいたそうにわたしを見下ろすアレスさんの渋面に、しばらくしてから笑いかけました。
「あっという間ね。全く気がつかなかったわ」
「追いかけなくていいのか」
「いいわよ。お金はあるし」
似たようなことはパティだってやっています。解放軍としてそれは許容している行為ですもの、私が少年を追いかけて何かできるわけもありません。それよりも。
「すごいわね……」
少年が素早く消え去った方向を見ますと、アレスさんも視線を向けて。
「スリの腕か?」
「いいえ、あの素早さ。わたし……そうね、今度パティにでも教えてもらおうかしら」
全て本心というわけではなく、もちろんドキドキと興奮する胸中を隠して、わたしなりの冗談ではあるのですが。それがアレスさんに伝わったのかどうかはわかりません。
ふう、と深く長いため息が聞こえて。見上げるアレスさんの顔は、逆光でよく読み取れず。
「……気をつけろ」
優しい言葉をかけてくれて、また、目的の地へと向かうのでした。