いつものにおい

 
 フィーの天馬はなんだかいい匂いがするね、とセリスがにっこりと微笑むと、それだけでなんだか場の空気が和らぐような気がする。
「そうですか? セリス様、天馬の匂いがいい匂いだなんて、結構変わった趣味持ってるのね」
 セリスの微笑みがまぶしくて、なんだかまっすぐ見ていられなくて、フィーは慌ててからかってしまう。
 男の人とは思えないような美しい顔立ち。剣を携えた戦の時とは違う、平時のセリスは物腰も声音も穏やかで、厩舎にいるのは場違いな気がしちゃう。とはいえセリスだって自分の愛馬がいて、そりゃ見習いの兵が普段は世話をしているんだろうけれど、たまにはセリス自身で世話に出たってそんなにおかしいことはない。
 解放軍は常に人手不足だ。
 現にセリスはフィーと似たり寄ったりの作業に向いた服で、肩に垂らした青い髪には藁が付いている。切りそろえられた前髪から少しだけ覗く滑らかな額にはうっすらと汗がにじんでいて、それでも笑顔が爽やかなんて、なんだか卑怯だ。
 話しかけられても、言葉を返しても、フィーは作業の手を止めない。汚れた藁をかきだして、新しい藁と交換して。きちんとマーニャが決められたご飯を食べているかも注意して。
 先ほど全身を櫛梳かしたおかげか、マーニャはセリスが近づいてもあまり気にする様子はない。
 珍しい、いつもは男の人が近づくと警戒するのに。お兄ちゃんは別、アーサーにもようやく慣れたところ。
「ふふ、そうかな。もともと馬の匂いが好きだと言ったら、もっと変だと思われるかな」
 それを知ってか知らずか、セリスは少し離れた柱に体をもたれかけて、ゆるく腕を組んで作業するフィーをじっと見つめている。別に天馬だって普段のお世話はほかの馬と変わらないんだから、そんなにじっと見てなくたっていいのに。
 変わることといえばブラッシングだ。それは馬に興味長い人たちも割と見たがる。天馬の要である翼を広げて優しく櫛をかけるから、それが見ものなんだそうだ。実際に行うフィーにとってはよくわからない。繊細な部分だし感覚も鋭いから、慣れたフィーであってもなかなか一苦労なんだけど。
「ううん、天馬の匂いは私も好きだから。でもいい匂いって言っていいのかしら」
 言いながら、スン、とマーニャの首筋に鼻を近づけた。獣くささと脂、汗と藁と体温が混ざり合った独特の匂いだ。フィーには昔から嗅ぎなれた匂いだけれど、やっぱり獣くささはあるからいい匂いとは思えない。好きなにおいではあるんだけど。
「馬と少し違う匂いがするよ」
「そうなんですね、知らなかった」
 馬とふれあい機会がそう多くないフィーだから、厩舎が近いとはいえ馬の匂いをしっかりと嗅いだことはない。違いがあるものかとびっくりした。みんな同じ匂いではないのか。
「嗅いでみるかい?」
 あらかた仕事が終わったフィーがマーニャの首筋を軽くたたくと、マーニャは感謝のしるしに優しく頬を摺り寄せた。
 ふんわり、天馬の匂い。胸いっぱい。フィーがシレジアにいたときからの一番の相棒、一番の親友。
 狭い厩舎の中でマーニャが少し窮屈そうに翼を広げる。
「うーん……いえ、いいです。マーニャだけでいいわ、他の馬に近寄ったら、マーニャが嫉妬しちゃいそうだし」
「そうか、それは残念だな」
 セリスは軽く肩をすくめた。軽い足取りで床にころがして置いたバケツを持ち上げ、中に櫛や縄といった道具を入れてくれる。
「セリス様、私がやるから大丈夫ですよ!」
 あっという間に片づけてしまったセリスに、フィーは慌ててしまった。マーニャの首筋からぱっと離れ、他に忘れている道具はないかと床を見渡すセリスの腕をつかんで、バケツを奪いように握った。
 意外。セリスの力が強くて奪えない。バケツをこんなに強い力で握るってあることかしら。
 なんていうか、盟主さんが一兵士の後片付けをしてくれてるって事実だけでおかしいのに。
 バケツの持ち手をセリスの掌とフィーの掌がぎゅっと握っている。変な状況。混乱しない方が変じゃないかしら。
 フィーが力を込めれば、セリスの手の抵抗が強くなる。どうしたのかしらとセリスの表情を伺えば、例のごとく、いつもの人好きのする笑顔。にっこり。
 何の邪心もないように見える透き通った笑顔は、それだけで才能だと思う。本当にセリスの笑顔は美しい。
 つられてフィーも、内心首を傾げながらも笑みが浮かんでしまう。
 視線が外せなくて、ああ、うっすら左にえくぼみたいな影があるんだ、知らなかったなんて発見してしまって。
「セリス様?」
「困ったな、いや、本当に今困っているんだよ、フィー。頷いてくれる想定しかしてなかったから、どうしていいか今必死に考えてるところなんだよ」
「困ってる、私が断ったから?」
「マーニャが嫉妬するんじゃ、それ以上何も言えないからね。ほんとうは口実にデートに誘うつもりだった。僕の馬に乗せてね」
 セリスは少しだけ唇を引き絞ったようで、えくぼの影が深くなる。フィーは信じられなくて何度も瞬きを繰り返した。
「ええと」
「大丈夫、次はもう少し……もっとまともな口実用意するから」
 ずん、とフィーの手に重みがかかった。セリスがバケツを手放したのだ。あいた掌で、セリスは小さくバイバイと手を振る。
「セリス様、まって」
「うん?」
「に、匂いを嗅ぐんじゃなくて、私、セリス様の馬の扱い、見てみたいっていったらどうですか」
 セリスの顔から微笑みが消えた。現れたのは驚きで、セリスの目が丸くなる。でもそれは一瞬だけで、またすぐにえくぼの影が頬に落ちる。
「いいね、それじゃあ僕は頑張らなくちゃ」
 再びセリスの手がバケツに伸びる。慌ててフィーは体の後ろにバケツを隠した。唇を突き出す。
「これはいいんです」
「やりたいって言っても?」
「そう、私の仕事だから」
 セリスは楽しそうに鼻を鳴らす。整った笑顔も素敵だけど、その笑い方はもっといいなとフィーは思った。




2018/07/31

えいどうさんの今日の組み合わせは
セリス→フィーで
お題は「香水」です
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