セリスは青い髪が美しいと讃えられることが多い。青空に透ける髪は、重い雲に淀んだ空にあっても晴れやかな青空を思い出させる髪は、それは希望の色だと。希望の色を有する盟主は、つまり光の皇子の名にふさわしく、英雄シグルドの遺した銀の剣を携える姿だけですでに神々しいと人々は褒めそやす。
青い髪、それよりも少しだけ淡い青いマント、また色味の違う青い軍服。そしてハッとするほどに白い手袋。
戦場を白い軍馬に乗って駆け抜ける姿は、まさに光だ。希望の青空、何者にも侵されない白色。
光の皇子。
その光は青空の光で、満遍なく大地に降り注ぐ柔らかな春の陽の光である。美しさは、何よりもその青い髪にあるとセリスは讃えられた。セリスといえばあの青髪であると。
だがティニーは、セリスといえば脳裏に常にその手袋が浮かんだ。なによりもその白色が。ハッとする、返り血を浴びても美しい白い手袋。
ティニーが見る時、常にセリスの手は手袋に包まれていた。剣を振り、手綱を操り、指示を出す。様々な表情を見せる、だが常に肌を見せることがなく、白い手袋に包まれているセリスの手。
セリスは、戦場を離れても、その白い手袋を脱ぐことはなかった。
当然戦闘中と平時では違う手袋である、戦闘中の革の長手袋ではなく平時では布の短めの手袋である。一度だけティニーは触れたことがある。ティニーが解放軍に入った時のことだ。参入時、戦闘の終わった宿営地で謝罪に赴いたティニーに、セリスは戦装束を脱いだラフな出で立ちで出迎えてくれた。
薄手のシャツは肘を覆う長さで、そこから少しだけ腕を見せて白い手袋が再びセリスの肌を隠す。
ティニーの謝罪の言葉を途中で止め、にこやかな笑顔で歓迎の言葉を述べて、セリスは右手を差し出してくれた。
「握手をしよう」
「……握手ですか」
「そう。ようこそ、ティニー。解放軍に」
おずおずと差し出したティニーの手を、迎えたセリスの手が両側から包み込んだ。柔らかな布がティニーの肌に触れる。
「ほら、これで仲間だ。だから私たちの間にそんな謝罪は必要ないよ。そうだろう」
「それでも私はこれまで解放軍の方々に酷いことをしました」
「ここにはたくさんの人がいる、いろいろな事情を抱えた人がたくさんいる。ティニーにもきっとひどいことを言う人もいるだろう。でも解放軍に一員になったからは、志が同じということだ。だから解放軍のティニーの謝罪は必要ない。共に同じ理想を目指して、これから共に歩んでくれるならば」
ティニーはそれを約束した。当然ティニーは帝国に刃向かうことを決めたのだし、セリスの指揮のものに戦うことを選んだのだ。そしてそれを改めて誓った。
その間セリスは両手で優しくティニーの手を握ってくれ、ティニーはセリスの柔らかな布にしっかりとくるまれていた。
セリスがなぜ手袋をつけるのか知らない。いつからなのかもわからない。
それとなくラナに尋ねてみたことがある。ラナは衛生班を取り仕切っており、救護だけでなくこまごまとした洗濯や軍事品の衛生的管理を任されていた。
セリスの手袋は、しかしセリス個人のもので、セリスがひそかに洗っているのだという。
「セリス様とわたしは同郷で、わたしの母も僭越ながらセリス様にご指導させていただいていました。洗濯なども母がセリス様に教えていましたが、盟主ですもの、セリス様個人のものとはいえ、わざわざセリス様が行わなくてもいいと再三言ってはいるのですが」
「でも、ご自分でやっていらっしゃるのですね」
「ええ。セリス様って、ほら、意志の強い人だから」
少し含みのある笑みを浮かべるラナは、言葉の端々に幼馴染としての矜持がうかがえる。ラナのほかにラクチェ、デルムッド、スカサハとレスタ-がセリスの幼馴染だという。
わたしたちはわたしの母を実の母のように、オイフェ様とシャナン様を父とも兄とも慕って育ちましたから、と目を細め口を弧にしてラナはかすかに胸を張る。同じ家、同じ庇護者のもとで育ったこと以上に、他の誰も知らないセリスの一面や過去をしっていることが誇りなのだろう。
新参者のティニーは、ただ頷くのみである。
「そうなんですね」
「みなも自分のものは自分で管理しているだろうって、ラナの手をわざわざ煩わせるのは忍びないだなんて言ってくださったの。わたし、セリス様の御為ならなんだってするのに――いえ、何でもないわ、ティニー」
会話をつづけながらもラナの小さな掌は井戸から汲んだばかりの冷たい水の中でパシャパシャと汚れ物を洗い続けている。何度か手伝いを打診したのだがやんわりと断られてしまているから、冷たい水しぶきを時折足に受けても、ティニーは春の少し温もりを覚えてきた日差しを受けて腰かけているだけである。
「昔からセリス様は手袋をしていらっしゃったの?」
「わたしが覚えている最初の日は、セリス様が蜂起なさった日ね。わたしたちの故郷、ティルナノグで。あの日、十分な準備でなかったにかかわらず、果敢にセリス様は帝国軍に立ち向かわれ、見事勝利を手にされた。そのとき、鬨の声を聞かれたときに掲げた手、その時からセリス様はずっと手袋をはめていらっしゃるの」
「ずっと」
「ええ、ずっと。それまではいつも素手でいらしたわ。白くて、大きくて、綺麗な手だったの。きっと今も変わってらっしゃらない」
ラナは一度水に濡れた自身の手をじっと見つめた。比較しているのだろうか。ラナの手、小さく良く動く手で、ティニーはまじまじと見たことがないがきっと働き者の手なのだろう。
「指が長くて、爪が少し大きくて、爪はね、切るのがお得意ではなかったの。いつも自分で切って、よく指先を怪我してらした。手の甲に、骨と骨の間、青白い血管が浮かんで見えて、手首の骨がポコンと飛び出しているのが何だかアンバランスに思えて……」
いいえ、忘れてください、と小さな声が打ち消して、ラナは再び洗濯に勤しむ。何を洗っているのだろう、シーツだろうか。ずいぶんと汚れていて、大きな染みがあるらしい。汚れ落としの洗剤と思しき塊を塗りつけては布同士をこすり合わせ、洗い板で汚れを落とし、水にさらす。
「そうね、それから。ここまで、わたしも随分セリス様の素手を見ていないわ」
「何かあったのかしら」
「……決意、とか」
「決意ですか」
ラナの視線は一心不乱に汚れに向かう。ティニーを見つめることはない。
「そう。決意かしらって。わからないわ、わたしも直接セリス様に聞いたことがないもの。でもセリス様はあの蜂起の日を決して忘れることはないわ、そしてそれを大切にしてらっしゃる方よ。あの日、あの時――あの鬨の声。ティルナノグがセリス様のお声に沸いたわ。
それをいつまでも大切にして下さる。その決意の表れ。帝国を倒し、困っている人たちを助け、シグルド様の汚名をそそぎ。そのすべての起源がティルナノグにあるって、あの一日にあるって、きっとその決意だと、わたし、おもうの」
それはどうだろう、と異を唱えたのはアーサーだった。ティニーと生き別れになっていたこの兄は、フリージ家に囚われ帝国軍に協力させられていたティニーを助け、解放してくれた恩人でもある。シレジアからずっとティニーを探していた、といってくれた。
解放軍に数多くいるほかの兄妹のように親しく打ち解けることはまだできないけれども、それでも失われた幼少期を取り戻そうとするかのように、ことあるごとに時間を取って会話をするようにしている。
セリスの手袋のことに会話が及び、ラナの見解だと前置きしたものをアーサーはバッサリと否定した。
「それはあの子がセリス様のことを信奉しているからじゃないかな」
アーサーは周囲のことをあまり気にする様子がないため、幼馴染であるラナの意見を否定するほどにセリスに対して意見があったのかとティニーははじめ驚いた。
それでも、気にすることと観察することは別だとすぐに納得がいく。アーサーは、みんなと交わろうとしないが観察しているのは好きなようだといつだったか兄の恋人がぼやいていたのを思い出したのだ。
「信奉、ですか」
「そう。なんか俺らと物の見方が違うんじゃないかなって思うよ。まあ信奉っていうか単に好きなだけかもしれないけど。セリス様はどうだかわからないけど、ラナは夢中になるとまっしぐらのようだし。まあ、ココにはそういうのが多いけど」
ほらなんていったっけ、おさげの、と淡々とした口調でアーサーが尋ねるので、パティのことでしょうか、と答える。
「そんな名前だったかな。好きだから、信奉するから、きっと良い風に取りたいんだろうね」
「いい風に、とおっしゃると、お兄様は良くない風に取ってらっしゃるのですか」
「手袋? うん、決意なんてそんないいものには思えない」
それきりアーサーは黙ってしまった。アーサーのなかでは終わりらしい。どのように取ってらっしゃるのですか、とおずおずと尋ねてみると、一度アーサーはティニーの顔をまじまじと見つめ、ため息を吐く。
「いい話じゃない」
「はい、でもぜひ聞きたいです」
ティニーは覚悟を決め居住まいを正した。アーサーは反して姿勢を崩し、そっぽを向く。風が、括ったティニーの髪を撫で、下ろしたアーサーの髪を乱す。
手櫛で雑に整えながら、アーサーはゆっくりと口を開いた。
「セリス様は、きっと潔癖なんだと思うよ」
「潔癖」
「周りの世界が汚く見えるんだ。自分一人が綺麗で、清くて、周りの人は、物は、みんな汚い。素手で触ることができないほど。嫌なんだ。汚い、汚らわしい、時には、忌々しい。そういう人がいる。怖くて触れないと言っていたよ、昔に会ったことがある。自分が触れられないだけじゃない、こっちが触るのも嫌がられる。汚らわしいと怒鳴られたよ。自分の持ち物、自分だけが管理しているものだけは触れるけれど、他人が少しでも触れようものならダメだと。だから素手じゃなく、常に手袋をするんだって。
ティニーだって、汚物を素手で触りたいとも思わないだろう。そういう世界に住んでいるんだ。そうやって世界を見ているんだ。そうとしか世界が見えないんだ。ある意味、かわいそうなひとだよ。
セリス様が素手でいるところを見たことがないんだろう。ティニーも、ラナだって。俺もだ。俺は、セリス様に触れる人だって見たことがないよ。あの人に……オイフェさまやシャナン様が触れる所を見たことはないし、それ以上に親しい人がいるとは思えない」
「だから、あの手袋もご自分で洗うのでしょうか」
「洗う? 自分で? へえ、セリス様も身の回りのこと自分でやるのか。ふうん、俺らと変わんないのな」
アーサーの最後のほほえみは歪んでいて、少しだけティニーは胸が痛くなった。兄の過去に何があったのかはわからないが、兄もきっとつらい思いを沢山していたのだろう。ティニーが、帝国貴族の一員として生活していた以上に、きっと。
人の内面なんて、想像するしかない。与えられた少ない情報をもとに推測するしかない。
セリスのことだってそうだ。あの手袋が決意なのか、それとも潔癖の表れなのか、ティニーもアーサーもラナも、勝手に考えるしかできないのだ。
幼馴染のラナ、いずれは母の国を継ぐアーサーと違って、一介の魔導士であるティニーには、セリスとの接点がこれといってない。多少の特異とすればもともと帝国側にいたことだが、それにはアドバンテージなど何もない。帝国瓦解に使えるような情報を持つわけでもなく、貴重な聖戦士の直系であるわけでもない。秀でた頭脳があるわけでも、癒しの杖の力を持つわけでも、元気の出る踊りが披露できるわけでもない。面白い話もできず、ティニーにできるのは、ただセリスを見つめることだけだった。
見つめることは、誰にでもできる。
セリスの決意を邪魔することなく応援することができる。セリスの清潔な世界を汚すことなく存在できる。
セリスの視界にティニーがいなくとも、ティニーの視界にセリスがいればよかった。セリスの青い髪を見るにつけ、白い手袋が様々な表情を見せるにつけ、理由は何だろうと考えるのが楽しかった。
もしかしたら人には見せられないような傷があるのだろうか。あらわれるという噂の聖戦士の紋章が隠れているのだろうか。もしかしたら、もしかしたら。
想像をめぐらすだけで楽しかった。知らぬセリスがその度に現れる。見ることのないセリスの掌を思い描く。長い指、大きな爪。指先にできた、爪切りの傷。手の甲に走る血管の筋。
ずっとセリスの手のことを考えていたから、直接セリスを目の前にするとどこを見ればいいのかわからなくなってしまった。自然と手袋に視線が吸い寄せられる。
「ティニー、君を呼んだのは次の戦いで中心的に魔導士を率いてほしいからだ」
セリスの手が胸の前で開かれる。使用感のある白い手袋は、少しだけ灰色がかってみえる。そんなことも今まで知らなかった。滑らかな真っ白の手袋だとばかり思っていたが、表面もどことなく毛羽立ってみえる。
「私が、ですか」
「そう、ティニーに頼みたい。といっても今回は魔導士の部隊を何隊かに分けて行動する。その作戦の一翼を担ってほしいんだ」
今度はくるりと手首を返し、傍の机の上を示す。踊るように人差し指が戦場を模したと思われる盤上の駒を弾く。
「これで」
駒はゆっくりと傾いたがバランスを取り戻して元の位置に戻る。
「解説するから、作戦を理解してくれ。これまで作戦会議に参加させていなかったのに、こんなことになってしまって申し訳ない。これから順に説明するが、のちにティニーの隊と私の隊が合流という形になる。覚えておいてほしい」
先ほど弾かれた駒がティニーの隊、そして周囲を円を描きながらなぞった青い石がセリスの隊であると説明された。
「よろしくお願いします」
「わからないことは何でも聞いてくれ。細分化された魔導士の隊が今回の作戦の要になる――ティニー、君のことだ」
すべての説明が終わった後に、セリスは再び大丈夫か、と確認をしてきた。はい、と答えるティニーに、にっこりと微笑む。
「頼りにしている。ティニー。君の戦力だけでなく、気力や行動、判断……すべてに対して。頼んだよ」
「――はい」
部屋を出る前にと深々と頭を下げるティニーに、セリスは、ああ、と声をかけた。なにか、とお辞儀から顔を上げると、目の前には白い手袋が差し出されていた。
「よろしくね、ティニー」
ティニーは言葉にならない返事をどうにか紡ぎながら、この作戦の説明中も見続けた手に、自分の手を重ね合わせた。
作戦の決行までは三日の猶予があり、はやる鼓動を押さえつつティニーは脳内で何度もセリスから受けた説明を反芻していた。いざその日を迎えてみれば、予想では晴天だったが鈍い色の雲がうっすらと滲んでいる。目標とする城の尖塔の旗が淡くかすんで見えて、瞼の上に庇を作って目を細めてみても、どの家の紋章だったか、即答が難しい程度に視界は良くなかった。
遠くまで見通す目が必要でなくてよかった。主にティニーの部隊が行うのは援護攻撃である。木立に紛れつつ、セリスの部隊を狙う敵陣を攻撃する。奇襲ともいう。はじめの一撃が一番大切で、必要なのは視力ではなく集中力だ。
魔法で目標を定めるときに必要なのは見通す力ではなくて、対象までの道筋を思い描くことだとティニーは信じている。
ティニーは、これといってまともな訓練を受けたことはなかった。母から受け継いだ魔導書も、叔母から強いられた魔導書も、教えられて使うようになったわけではない。見様見真似と勘だけだ。だから正しい理屈はわからない。
第一配置の場所につき、数人の部隊員に予定通りの指示を出す。セリスの部隊はまだ気配もなく、敵陣も遠い。
屈んで生い茂る草木に姿を隠せば、尖塔の旗も鈍色の空も見えなくなる。枝の間から様子をうかがいつつ、ティニーは呼吸を整えて作戦決行の合図を待った。
しばらくすれば大地を揺るがす馬蹄の響きが伝わり、ティニーは慣れ親しんだ魔導書の革表紙を指でなぞった。何度となく口にした詠唱の初めの言葉を思い浮かべる。
風も、炎も、雷も、光も。詠唱はどれも同じ言葉から始まる。今の言葉ではなく、はるか昔の言葉、今は失われてしまった言葉で。
ティニーはその言葉の意味は分からない。詠唱の中身もわからない。歌のように覚えきった文言を口ずさむだけで、詩のように中身を理解するには至らない。きっと上位の魔法を扱う魔導士になるには必要な知識なのだろう。
意味は分からないが、ティニーはその響きが好きだった。澄んだ音で、整えた呼吸と狙った対象への道筋をむすぶのに最適だ。研ぎ澄ました集中力をさらに高めてくれるようにも思える。
目の前を一度セリスの騎兵隊が通り、続けて敵の部隊がやってくる。予定通りにティニーたちの部隊が隠れる付近で陣形を変え、相対する。
ティニーが狙うのは、敵隊の隊長格である騎兵である。鎧や武具がほかの兵と違う。いかにも手が込んでいて、そして華やかだ。狙うには最適の標的で、十分に、射程範囲に入っている。
ティニーは静かに腕を水平に掲げた。率いる部隊員への合図である。
解放軍では誰かを率いて戦うのは初めてのことだが、フリージにいたころには何度も経験していた。もちろん単なる部下ではなく、ティニーの反逆を抑止する見張りであり、ティニーの実力を見極める審判であったのだが、それでも部隊長が初めてというわけでない。むしろ少人数であれば、何度も経験していたことをただなぞるだけである。
凛と張りつめた空気が場を支配している。ティニーは腕を下ろし、小さな声で詠唱をはじめた。
「――」
ティニーの、そして隊員の魔法が弾けるように続けざまに炸裂する。眼前のセリス率いる騎兵隊以外に気が付いていなかった敵部隊は混乱し、その混乱に乗じてセリスが攻撃の令をだす。反応良く騎兵が雄叫びと共に戦場を駆け抜けた。
鈍い剣劇の音と力強い馬の駆ける音。悲鳴と叫び、馬を繰る声。敵味方の入り混じる近距離の混戦では、魔法は不向きである。ましてや、これいといった隊列を組まずに奇襲戦法にのっとった場合は。
セリスから初めの一撃のあとは撤退するようにといわれている。剣や槍などの武器と違って、魔導士は選ばれた才能だ。魔力を持っていないとなれないが、魔力だけがあっても操れるものではない。操れる魔法や威力の差はあれど、魔導士は十分貴重な存在であるのだ。
一人でも負傷者を増やしたくないというセリスの思惑はよくわかっていた。すかさずティニーは撤退の指示を出す。何人かの敵兵がティニー率いる部隊を狙いに来ているのは分かっていた。逃げつつ、応戦する。騎兵相手では障害物の多いほうがいい、なるべく獣道を選んだ。
それでも真正直に逃げやすい踏み均された道を逃げた魔導士がいたようで、聞いたことのある声が苦痛を叫ぶ。少しだけ悩んで、ティニーを追う敵がいないことを確認し、声の主を探した。
隠れて魔法を、と思って詠唱をはじめながら駆け抜けた。本来ならば標的までの道筋の決まっていないまま始める詠唱は効果が薄い。ティニーの好むものではなかったが、セリスがティニーに期待し任せた部隊だという思いがどこか念頭にあった。
しかしその準備は必要がなかったようだ。ティニーが争う人影を見つけたとき、鈍い悲鳴と共に人影が倒れる。馬上にて肩で息をし、血に塗れた剣を振り下ろした人物がティニーの足音に気が付いてゆっくりと振り向く。
なびく髪。
「……セリス様」
「気が付くのが遅すぎた」
上がる息を押さえた口調で静かに呟く。白馬の足元には二つの遺体がある。解放軍のものと、帝国軍のもの。乗り手を失った帝国軍の馬はあっという間に走り去ってしまっていた。
ティニーは足音を追いかけるように一瞥し、遺体を見つめ続けるセリスに視線を向けた。
「あちらは」
本陣の様子を尋ねると、既に済んだ、とセリスの返答は短い。
「セリス様に仇を取っていただいたこと、きっと彼も感謝しているとおもいます」
「私は……」
セリスは口をつぐんだ。
返り血でセリスの手袋までも血に汚れている。剣についた血は勢いよく振るい落とし、こびりついたものをマントで乱暴にふき取る。感情に、怒りに任せたようなセリスの行動が珍しくて、ティニーはその一挙一動を余さず見つめてしまう。
剣は銀の剣だ。セリスが父から継いだという、使い込まれた剣。ティニーの魔導書と同じだ。親の形見。
綺麗になった剣を鞘に戻し、マントを翻すようにしながらセリスは馬を下りた。血に汚れてしまった部分がわからぬほど、セリスの青いマントの裏地はじっとりと暗く赤い。真っ白い手袋は、今は赤黒い染みが目立つ。汚くないのだろうか、嫌ではないのだろうかと、身に纏う服が汚れたセリスのことが不安になってしまう。
「どのような立場であれ、人を殺めるのは……私は好まない」
「それでも戦いです、セリス様。戦争です」
「戦わず得られる未来がないことはよくわかっているよ」
振り向いて、少しだけ困ったような笑顔をティニーに見せてくれたセリスは、先ほどまであらわになっていた感情がすでに分からない。いつもの通りに見える。
「未来は光にあふれています」
セリスは白馬の首を撫でながら道の脇へ動かし、逃げぬように木に手綱を括り付けた。
二つの遺体の間に立ち、セリスはおもむろに右の手袋を取った。
「……セリス様?」
白く、骨ばった手だった。爪までは見えないが、指は長く、美しい形をしている。
セリスは外した手袋を左手に持ったまま、膝をつき、遺体の前にかがむ。そして見開いたままの遺体の瞼を、白い指でそっと伏せる。
「彼らはもう、あふれる光も、未来も、見ることはできない」
「セリス様」
ティニーには、セリスの名前以外にかける言葉がなかった。セリスは素手のまま、その手が汚れるのも厭わずに血に汚れた兵士の顔を撫でる。
潔癖ではなかったのか。それでは決意なのか。ティニーは握られたままの手袋がわからなくなる。いや、潔癖であるはずがない、汚らわしい血に触れ、死に触れ。それではやはり決意なのか。
しかしセリスの優しい指先は同じように帝国兵にも触れた。顔についた血の汚れを拭きさり、瞼を下ろす。
決意であれば、帝国を倒す決意ではないのだろう。帝国兵であろうと解放軍であろうと、人を殺したくないと漏らすくらいだ。帝国を倒す決意でなければ、世界に光をもたらす決意であるのか。人血の流れない世界になるための、決意か。白色を選ぶのは、流れた血がよくわかるようにだろうか。赤黒い血で汚れた、今のセリスの手袋のように。
セリスはしばらく慈しむように遺体の顔を撫でていた。目は優しく、穏やかに見える。手つきは滑らかで、柔らかい。
ティニーはゆっくりとセリスの傍に歩み寄った。セリスの世界を邪魔するのははばかられたが、それ以上に慈しみあふれる掌でティニーを撫でてほしかった。その肌はどんな滑らかさなのか、どんな温かさなのか、ティニーの頬で確かめたかった。血に汚れた爪を、指先をなぞりたかった。
しかしティニーが触れられる距離になると、セリスはすばやく立ち上がり手袋をはめ直す。そしてティニーの延ばした手を白い手袋でそっと抑えた。
セリスと目があった。
ティニーの顔に非難の色が浮かんでしまっていたのだろうか、セリスはすまないと口を動かした。
「あまり……人に触れられるのは得意ではないんだ」
「生きている人には?」
「ああ、そうだね」
そうですか、とティニーは小さく答えた。しかし伸ばした手を戻す気になれず、セリスの白い手袋に留められたままにしている。力をこめれば突破できそうに優しい阻止に、胸の中でふつふつと湧き立つものがある。
「セリス様は、なぜ、いつでも手袋をされるのですか?」
「……汚したくはないんだ」
「セリス様。わたくしを、汚いとお思いですか?」
腹を決めて尋ねてみると、セリスは目を丸くした。
「そんなことはない」
「でも、触られるのはお嫌だと」
セリスの白い手袋にかすかな力がこもるのを、ティニーの手は感じた。セリスは一度頷く。美しい青い髪がセリスの顔を隠す。晴れ渡る春の午後のような、美しい青い髪が。
「汚いのは私のほうだ、ティニー」
セリスの返答は小さかった。
「綺麗な世界を、汚い私が汚すのが堪えられないんだ」