解放軍最後の夜であった。最終決戦――ロプトウスに心身奪われたユリウスとの戦いを征し、帝国の崩壊を宣言したのは、つい先ほどである。今夜をもってして解放軍は解体される。この宴が終わり、清浄の朝日の差し込む頃には、それまで解放軍の一員として戦場に立っていた仲間はみな各国の王、王女、公子として生きる道を選択するのだ。
この宴は必ずしも喜びあふれる宴ではなかったが、それでも限りある一瞬を惜しみ充実のものにしようとしていた。
友や兄妹と別離を嘆き、再会を誓い合うものたち。昔話に盛り上がり、そのまなじりにうっすらと光を集めるもの立ち。酒を片手に今までの鬱憤と隠しきれない好意を悪態交じりの冗談で交し合うもの立ち。自らの、もしくは仲間の手で親族をあやめたものたち。親密な仲のものと会場をこっそり抜け出すものたち。
ティニーも最後の一組に含まれていた。というよりも、気が付いたらティニーはレスターと二人、涼しい夜風のふく中庭を歩いていた。
初めはフィーやアーサー、パティといった仲間と今後について話していたはずだった。
ティニーはフリージへいき、聖痕をもたぬ末裔として統治することを選択した。無理をする必要はないとみな気を使ってくれたが、ティニーにとってフリージは母や自らを陥れた非道な家ではなく、やはり守るべき一族であった。
それに、もう一人の末裔である兄のアーサーはより濃く父の血をひいているのか、やはり聖痕はないものの父の家系を継承すると宣言していた。恋人もともにゆくと、酒で上気した頬をうれしそうに歪ませてティニーに教えてくれたものだ。
ティニーとともにフリージにゆくのは恋人ではない。ティニーに連れ添う相手はおらず、従姉であり雷神と恐れられたイシュタルの形見、トールハンマーだけである。ティニーは恋人を作らなかった。気になる相手がいないわけではないが、結局は思いを伝えることなく離れることになった。
みなの今後を問う。ユリウスと退治する前から、今後のことは心に決めていたことだろう。ティニーがそうであったように。ただフィーやパティ、一部の女性陣は、頬を染めながら「恋人とともに人生を歩む」と誓いの言葉を口にした。出立はいつか、今後の展望はどうか。これからも連絡を取り合おうと約束を交わし、その半分も守られずに終わるのだろうとティニーはどこか冷静な自分を感じていた。
いつのまにかその冷静な自分が、出来上がった自分になったのかはわからない。それまではあまりアルコールを口にすることはなかったからか、それとも緊張がほぐれてしまっていたのか、はたまたアルコールの高い酒だったのか。
気が付いたときにはすでに手遅れだった。頭が重い、焦点が定まらず、顔が厚い。少し吐き気もあり、ティニーはふらつく足取りで一人室外に出た。廊下の低い桟に腰掛け、夜風に当たる。何かにもたれかからないとひっくり返ってしまいそうだったので、座りながら這うように柱までたどりついた。
冷たい風に吹かれながら、ぼんやりと宴の会場を眺める。きらきらとした明かり。きらめく宝石。鮮やかな布。少し汚れたドレスのスカートとティニーの髪、リボン。楽しげな声までが軽やかな色となって視界を覆い、さすがにまぶしくて瞼をおろしてみた。
ティニーを呼ぶ声がする。
「……レスターさま」
ぼんやりとした景色の中、晴れた青空の色が飛び込んできた。
「大丈夫ですか、ティニーさん」
レスターだ。下は直接地面であるのに、ティニーの目の前にひざまずき、心配そうにティニーを覗き込んでいる。片手はティニーの手をなでている。反対側の手はティニーの横の桟に飲みかけのグラスを置いている。
いや、酒精の見せた幻なのかもしれない。ティニーに触れる手も、心配そうなまなざしも、美しい青い髪も。
空いた手でティニーはレスターの髪に手を伸ばしてみた。いつもレスターが上げている前髪は、硬そうに思っていたのに、びっくりするほどやわらかく、さらさらと音を立てながらレスターの顔を隠しだした。綺麗な顔立ちなのに、もったいない。
「だめ、です」
「……大分酔っているみたいですね」
「え、あ、はい……」
しばらくたってからレスターの顔に焦点が合った。困ったような眉の下は、微笑む瞳。
慌ててティニーはしっかりと座りなおそうとしたが、逆にバランスを崩してしまった。後ろに体が傾き、とっさにレスターが引き寄せてくれなければ背中から落ちてしまっていただろう。低いはずの桟なのに。
レスターは引き寄せたティニーを優しく包み込んだ。
はげしい眩暈がティニーを襲う。
「無理はなさらないほうがいいよ」
「……ええ」
レスターの礼服は白で、たぶんティニーの化粧が着いてしまっただろう。今日はがんばって化粧をしたのだ。頬紅も、目の周りも、口紅も。自分でも満足いく仕上がりだったが、今となってはどうでもいい。ただレスターの胸に顔を寄せて、酒のにおいのなかからレスター自身のにおいを探る。
「部屋に戻りますか?」
「……うん」
こんなにおいをしていたのかしら。
ティニーはうっとりと目を開けた。レスターのそばにいるのは初めてのことだ。こんなに近くは、もしかしたら最初で最後かもしれない。どうせあと少しで離れ離れになってしまう身。アルコールの力もあって、ティニーは幾分か大胆になっていた。まだ夢であるとも信じるティニーもいたことであるし。
レスターはティニーをたたせる。ふらつく足元が治まるまで、レスターがティニーを抱きかかえながらじっと待っていてくれた。
レスターは、優しい。見知らぬ、というにふさわしい、大して会話もしていない女に対してもこうも優しいのだ。誰にでも優しかった。真面目で優しく、頼りになる兄のような存在、という役回りを好んでいたような節もある。レスター自身は覚えていないだろうが、ティニーは何度も戦場で窮地を救ってもらっている。
わがままを言えば、他の人と同じだけの優しさなどほしくなかった。特別な優しさがほしかった。
見知らぬ女からそんなことを言われれば、いくらレスターといえど、ティニーのことを避けるに決まっている。そうなるよりは平等な優しさをほしがった。
誰にもいうことはなかったけれど、本当のティニーは我侭だった。
レスターは誰にでも優しいけれど、線引きはしっかりしていた。だれにも優しいから、誰かにだけ優しいことはほとんどなかった。幼馴染という数人を除いて。彼らは別格だった。セリスをはじめ、レスターの幼馴染たちは別の空気を身にまとっているようだった。だからレスターが彼らに特別なのも十分うなずけた。
本当は、こんな酔っ払った女の介抱などレスターはしたがらないだろう。しかも恋人でもない女を部屋に送り届けに行くなどと。よからぬ噂が立つには十分な状況で、本当ならば心苦しいに違いない。それでもこうして助けてくれるのはなんということだろう。ずっと隠していた我侭なティニーが出てきているからかもしれない。それとも本当に、危ないくらいによってしまっているのだろうか。
ティニーにはわからないが、敢えてレスターに問いかけてしまってはせっかくの時間が終わってしまう。ふわふわの世界を歩きながら、レスターのエスコートにしたがって歩く。優しく、時々ティニーの足がもつれたときは転ばないように体ごと支えてくれた。そのたびにティニーにはレスターのにおいがわかった。
「レスターさまはいいにおいね」
「ん?」
「……におい」
「そうかな、ティニーさんのほうが」
レスターの声は気持ちがいい。髪は空の色、瞳は森の色をしているけれど、レスターの声は深紅のベルベットのようだ。滑らかで艶と深みがあって、ワインのような色をしている。耳に届くだけで酩酊してしまいそうだ。
「レスターさまはどうするの?」
「……なにが?」
あしたから。これから。レスターさまは誰とも一緒にならないとうわさは耳にしてますけれど。
「ああ」
よろけたティニーの腰にすばやくレスターは腕を伸ばした。巻きつけるように抱きかかえる。
「ここのあたりは足場が不安定だから、ティニーさん、すこし、ごめん」
ティニーは何もいわずに腕を絡め、肩口をつまんだ。
「……俺は、ユングヴィにいきますよ。母を連れてゆきたいけれど、まだ落ち着いてはいないから、ファバルに協力できればと思う」
「ラナさん……」
ラナは恋人のもとへ行くといっていた。恋人の事情もあり、数日後にはここを発つようだ。一番早い別れになるだろう。
「寂しいですね。やっぱり、大切な妹だから」
「どうして」
「はい」
ティニーの部屋はもうすぐだった。廊下を曲がり、三つ先の灯火のともる部屋。もっと長い道のりだったならばいいのに。たとえばフリージまで。
「レスターさまは特別な方を作らなかったのですか?」
涼しい夜風の中を歩いたことで、実はティニーの冷静さは少しずつ戻っていた。まだ足元はおぼつかないし、舌先もうまく動かないけれど。
「ティニーさんもでしょう」
「わたしは出来なかったんです」
「特別な人、が?」
レスターが、意味ありげに言葉を区切ったように聞こえる。顔を見上げたかったけれど、重い頭は動かなかった。レスターの肩にこつんとぶつけたままで、何も見えない。
灯火は後二つ。
「思いを伝えることが」
「俺もだよ」
もったいない。レスターさまの申し出を、断る娘がいるでしょうか。
「え?」
レスターの声が頭に響いた。
「冷えてきました」
「寒かった? 薄着だものね」
「おめかししたんです」
とれてしまった化粧もがんばったんです。レスターさまにほめていただきたくて。
「よく似合ってらっしゃる。可愛いよ」
あとひとつ。もう隣の部屋まで来てしまった。ここはフィーの部屋だ。ティニーの奥はパティの部屋。女性陣の部屋があてがわれているこの一角だがレスターは堂々としていた。足取りは、ティニーにあわせてゆっくりと。勘違いしてしまいそうだ。レスターも別れが惜しいと思っていると。
「うれしい」
「……もう、つきましたね」
「ざんねん」
ティニーの腰に絡めていた腕を、レスターは無言で解く。ティニーも肩口から手を離し、腕を下ろす。レスターの体温が移ったように温かかった腰は今は冷えてしまった。身震いがする。
「早く部屋に入ったほうがいいよ、風邪を引いてしまう」
レスターはティニーの肩をそっと押した。促されるままに一歩進むと、部屋の扉が近づいてくる。
「レスターさまは寒くないの?」
扉のノブに手をかけながらたずねると、レスターは少し笑った。振り向くとレスターは困ったような顔をしていた。それでも微笑みが浮かんでいる。
「そういうことをいうものじゃない」
「そうでしたか」
指摘されて急に恥ずかしくなってしまった。うつむくのは頭が重たいので簡単だった。レスターの大きな手が優しくティニーの頭をなでた。すべるように髪に触れ、ゆっくりと頬に戻ってきて顔を上げさせた。なんて暖かい手のひらでしょう。ティニーに触れるレスターの手のあまりの気持ちよさに、うっとりと目を閉じた。
「それが本気の言葉なら、ティニー、素面のときに言ってもらいたかった」
唇が柔らかいものに触れた。
「ん」
目を開けると、レスターの瞳が優しく微笑んでいた。
「おやすみ、ティニー」
「レスターさま……」
レスターはティニーの手のひらの上からドアノブをまわした。開くドアにしたがって、ティニーは数歩たたらを踏む。半歩部屋の中に踏み込んで、レスターが支えてくれた。
「レスターさま」
大きな手のひらがティニーの小さな手の中からドアノブを取り出し、そっと扉の前から移動させる。
「レスターさま」
「……おやすみ、また、明日」
扉が閉まるまでレスターはティニーをじっと見ていた。立て付けのいい扉はきしみもなくしまっていく。
「明日はもう少し勇気を出すから」
ドアが閉まる音にかき消されながら、最後に、レスターの心地いい声がティニーの耳先を掠めていった。