くすぶりしとなる 3

 夕飯を済ませ、寝るまではそれぞれが自由に使う時間である。特別に週に二度オイフェやエーディンによる講義があるのだが、昨日のオイフェの時間にスカサハは個人的に宿題を出されてしまった。
 内容は地理的状況を活用したティルナノグの理想的な守備方法である。この手の問題はデルムッドが得意で何度か考えたことがあると言っていた。スカサハはむしろ苦手なほうである、考えるよりも指示に従って動くほうが得意だ。正直、デルムッドに代わりにやってほしいくらいだ。
「俺はもう何度か考えてるからいいよ」
「オイフェ様には見せてないだろ」
「ない。けどどうせ今度、スカサハのそれ見ながらやることになるだろ。その時を楽しみにしてろよ」
 楽しみになんてするもんかと苦々しくつぶやくと、大きく笑いながらデルムッドは居間を出て行った。
 今日は珍しく居間にいるのはスカサハだけである。エーディンと食事当番のラナ、レスターが台所で後片付けをする声が聞こえてくる。水を流す音と笑い声、内容までは分からないが楽しそうな会話。シャナンは里の長に夕食から招かれていて、オイフェもそれについていった。セリスは剣の手入れが終わっていないと早々に部屋に消え、ラクチェは気がついたら姿が見えない。おそらく宿題の事で話を振られるのが嫌なのだろう。
 火の入っていない暖炉の傍に椅子を動かし、スカサハは地図を広げた。ティルナノグの周囲が描かれている地図である。
 地図は高度な政治的、軍事的な情報であり、とても貴重なものである。本来ならばイザークの辺境であるティルナノグに地図などありはしないし、そもそもイザークの地図は少ない。グランベルがイザークを蛮族扱いしたことが大きな要因だし、侵略するにしても必要ないと踏んだのだろう、というのがオイフェの意見だ。シャナンはそれに反論しなかったため正しいのだろうとスカサハは思っている。オイフェはグランベルのことに詳しく、シャナンはイザークのことに詳しい。この地図はオイフェがどこからか入手したものにシャナンが手を加えたものの複写である。
 山を表す記号が幾つも連なり、細い川と端に見切れる湖、畑。この記号は密度の低い木々だと教わった。崖、そしていくつかの家。平面にあらわされると、スカサハたちの暮らすティルナノグはとても狭い。
 ぼんやりと全体を眺めながら、敵が攻めるのならばどのあたりからだろう、と地図の外までを意識しながら考えていく。泉は西の家の裏まで広がり、そこからは急坂と崖で途切れてしまう。川は細すぎて橋を落としても大した意味がない。なるべく人的にも物的にも被害を少なくするには、どうすればいいのだろう。
 ああでもないこうでもないと頭を悩ませながら持ってきた駒を敵や味方、障害物に置き換えて考え込んでいると、少し離れた位置にスカサハのマグカップが置かれた。
 顔を上げるとラナである。反対の手に自分のカップを持ち、丁度椅子を引いてスカサハの斜めに座ろうとしていた。
「ラナ」
 少しびっくりして、すっとんきょうな声が出た。
「お邪魔なら、どくわ」
 ラナは一度目を大きくして、それから優しく微笑む。スカサハはそんなことないよ、と首を振り、わざとらしく頭を抱える。
「座って。よかったら少し知恵を貸してよ。みんないなくなるんだ」
「オイフェ様の宿題よね。ふふ、スカサハがどんな考えをするのか、楽しみだわ」
「ラナまでそんなことを……」
 礼を言ってスカサハは自分のカップを手に取った。なみなみとそそがれているのは、スカサハの好きな銘柄のお茶である。皆それぞれに好みがあるため、頭を悩ませたエーディンは好みのものを全部そろえるという単純明快な手法を取った。何が悪いのかしら、とエーディンは邪気のない美しい笑顔を浮かべたままだったが、シャナンとオイフェが蒼白の表情をしているのを見るからに、あれはなかなか暴挙だったのだろう。
 このご時世、グランベルの銘柄は安くなく、入手も困難である。それでも切らさずに全部そろえておきたいわ、と笑顔でのたまう。
 エーディンは、今でも十分美しいが若かりし頃は絶世の美女だったという。深層の令嬢だったらしい、箱入り娘だ。よほど蝶よ花よと育てられていたのか、時折スカサハでもおかしいと思う言動は見受けられる。しかしそんなところもエーディンの魅力だと皆口々に言う。
 ラナは実子ではあるがあまり似ていると言われることがない。レスターは目鼻立ちが似通っている。髪の色さえ大きく違うものの、男にしては大きな瞳も、通った鼻筋も母親譲りであることは間違いない。
 ラナは父親譲りなのか、ふわふわと宙をおよぐ色の濃い癖っ毛も小さく上を向いた鼻もすこし厚めの唇も、エーディンには似通わない。父親を見たことがないからスカサハには分からないが、オイフェは酒を片手に一度だけ似ていると言及したことがあった。それきりだ。ラナとレスターの親はあまり話題に上ることはない。もっともスカサハたちの親も、デルムッドの父親の話もそうだ。シャナンたちは、皆、避けようとしているかのように口を重く閉ざす。
 一度でいいからラナの父親の顔を見てみたいとおもう。どこの家の出自だったか忘れたが、行けばもしかしたら一枚くらいは肖像画が残っているのではないかと思いながら、きっと燃やされてしまっただろうと苦しい思いも胸によぎる。反逆の汚名とはそういうものだとスカサハに教えたのはオイフェである。
 父親似なのだろうラナの優しさがスカサハは好きだった。ティルナノグの人たちは皆エーディンを美しいとほめたたえるけれど、スカサハはラナの素朴で温かみのある姿が大好きだった。エーディンももちろん心優しく清純であるが、ラナのそれとはまた違うように感じることが多い。エーディンが万人に注がれる慈しみであるとして、ラナは寂しいときにそっと寄り添ってくれる肩のぬくもり、それがスカサハにとってのラナの優しさなのだった。
 ふわり、と優しい花の香りに似た紅茶はそんなことを思い出させていた。たった一杯、ラナの淹れてくれた紅茶を飲むだけなのにいろいろなことを考えてしまっていた。どうやら動きも止まっていたようで、不思議そうな表情のラナがカップを片手にこちらを見ている。
「大丈夫、なんだかだいぶ疲れてるのかしら」
「……こういうのは苦手だからな、デルムッドがうらやましいよ」
 だいぶまとまっているみたいだけど、とラナが軽く身を乗り出して横から地図を覗き見る。勉強会は当然ラナも参加しており、分野によっては誰よりもラナが秀でていることもある。軍略はデルムッドが群を抜いており、時折オイフェをもうならせるほどだ。ラナとスカサハは似たり寄ったりだろうか、立場の違いで視点が違うゆえに問題点もあぶり出しが違ったりする。
 現に暫くスカサハの地図を見つめたラナは、軽く下唇を噛むと何かもの言いたげに頬に触れた。ラナの癖である。
「――何か、ある?」
「面白いなぁって思って。スカサハはこう考えてるのね」
「何かあったら言ってくれよ」
「だめよそんなこと! スカサハの宿題でしょう、オイフェ様の授業のときに楽しみにしてるんだから」
 デルムッドと同じこと言う。もとよりスカサハも導いてくれるだろうなどとは思ってもいなかったが。
「みんなそうなんだよなぁ。楽しみにしてるって、まったく」
 紅茶で喉を潤した。優しい香りがスカサハを応援するように包み込む。覚悟を決め、スカサハはもう一度地図と向き合った。
「……ふふ、がんばってね」
 身を戻したラナが笑って、肘をついてカップを両手で包み込んだ。
 オイフェの勉強会の日は散々だった、スカサハの見落としていた箇所をいくつも指摘を受け、結局模擬戦では次々とやってくる敵兵に対応できず負けてしまった。デルムッドの案はスカサハと違う視点を持っていて、それでもあと一歩でオイフェによってティルナノグは陥落してしまった。
 面白いもので、デルムッドの案とスカサハの案は二人補えるところもあった。デルムッドの欠けているところにスカサハの一部を補うと、それまでよりもオイフェ率いる敵軍からの被害が少ない。なるほどそうすれいいのか、と思う次はセリスの策で、これはスカサハのものに似通っているが防御方法がまったく異なる。前線と言えながらもあえなくオイフェに敗北する。。
 こうやって攻防の策を練ると個人の癖が出る、何を重視するかどのように動くか、地形や武器の利をどれだけ理解しているか、応用できるかに差が出てくる。
 結局手を変え品を変えティルナノグの土地でオイフェと戦ったが、誰一人として勝利を勝ち得るものはなかった。ラクチェなどはオイフェ側の兵を半分に減らしてもらったが手も足も出ずに終わっていた。
「これが戦略の差だ、学びなさい。戦いは武力だけではなく、作戦も大きくかかわっている。ただ剣の腕、弓の腕が秀でていればいいというわけではない、誰がどう動くか、どこに何があるのかと理解しながら先回りをして動くんだ。
 今回私に勝てなかったということはもしも今ここに敵軍が攻め込んで来たら――わかるだろう」
 模擬戦とはいえティルナノグの善良な人々を死なせてしまったのだ。それはスカサハの胃に重たく圧し掛かる何かを残した。どうにも負けというのは気分が良くない、負けず嫌いなのかと思ってはいたが、勝てなかったということが悔しいのではなく死ぬこと、殺すことが嫌なのだとわかってきた。
 しかしスカサハは戦士だ。戦うことが今の目的だ、帝国を倒すこと、両親の汚名を晴らすこと。恥辱を雪ぎ、正統な名誉を取りもどす。それには剣を持つことが何よりで、それには人を殺めることが求められる。しっくりとくる目的でないとしても、スカサハに与えられ、育てられている目的である。
 この手でいつか人を殺め、人の未来を絶たねばならない。その覚悟ができていなかった。負けることは、死ぬことだ。
 何度かそのことについての説明は受けていた、負ければどうなるか。残党として追われている立場であるという、ティルナノグや周辺では比較的自由にやらせてもらっているものの、そういえばオイフェに連れられて外に出るときには身を隠せとよく言われる。姿を変えろ、と。イザーク周辺ではグランベルの血はまだ珍しく、グランベルの地ではイザークの血だけでなくグランベルの家系の特徴をも隠さねばならない、と。
 そんなものか、と。
 戦乱の世の中なのだからと、納得していたものだが。あれも「戦略」であり「策」なんだと実感した。オイフェは生きるために、スカサハたちを生かすために、ずっとたくさんのものを見て、判断して過ごしていたのだ。
 オイフェの祖父は策にたけた軍師なのだとシャナンから聞いたことがある。しかし彼のもとで学んだ期間は短いはずで、ではどこでそれを覚えたのかといえば、実地と独学なのだろうとシャナンは言う。剣を持って戦うことはなかったが、シグルド軍の中で沢山を見て吸収した男だと。オイフェ自身はあまり自分のことを語りたがらず、だから又聞きでしかないが、長い間ともにいるシャナンが言うのだからそう間違いはないのだろう。
 生き抜くために学んだ知恵だ、と言っていた。彼はきっと祖父を超える軍師になれるのだろうと。それはきっとオイフェの無念があって故で、そして主君の嫡子を決して死なさぬためのオイフェの精一杯なのだと。
 シャナンやオイフェは人を殺めることが怖くないのだろうか。自分の剣が他人を切り裂き、命を奪うことが恐ろしくないのだろうか。それに慣れていくものなのだろうか。
 既に一人の剣士と、騎士の彼らにそれを聞くことはスカサハん胃は出来なかった。スカサハたちを守り、沿だれるためにそうならざるを得なかった二人には。
 日々訓練を重ねるうちに、いずれ訪れるその日が近くなる。戦の足音が聞こえてくるように、治安が少しずつ悪くなり、帝国軍の爪痕が隠れ里にも押し寄せてくる。
 

 

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