日差しの中をラナがヨロヨロと歩くのが見えて、スカサハは汗を拭いていた手巾を首に巻いて小走りに近づいた。この道は家までなだらかだが長い坂道が続く。
「ラナ!」
おぼつかない足取りは残したまま頭だけでラナは振り返る。ぐらりと体が揺れて、ラナは大きくたたらを踏んだ。
「あら、スカサハ!」
「危ないよ」
振り子のように大きく揺れる重たい水桶にスカサハは手を伸ばした。ラナの細腕では辛いだろう量がなみなみと入っている。
「ありがとう、スカサハ」
ラナはお礼を言いながらも少し自分のスカートを気にしているようだ。つまんで、バサバサと揺らす。
「濡れた?」
「うん、すこし」
不用意に呼びかけたからだろうか、スカサハはちょっとだけ後悔した。水汲みは基本は男の仕事だ。ティルナノグの家は坂の上にあり、下の井戸まで水を汲みに行くのは一苦労なのだ。女たちが朝料理をしている間に、男たちが水汲みを行う、それが毎日の仕事だった。
一日分と、余分に少し。大きな水瓶ひとつが満杯になる量を汲むのは皆で手分けをしてもなかなかの労働だが、毎日幼馴染と誰がより多く汲んでくるかを競うのは楽しい。最後の一杯を運び終わる頃にはどんなに寒い冬でも体が温まるのだ。
ラナがこうして一人で水汲みをしているのは珍しい。今朝の水汲みの当番はデルムッドとセリスで、二人とも時々遊びながらではあるもののしっかりと仕事はサボらないはずなのだが。
「ラナが水汲みなんて珍しいね。もう足りなくなった?」
「ううん、冷たいお水が必要だったの」
「言ってくれればいいのに」
「だって、剣の訓練の真っ最中だったから」
ラナは相変わらず濡れたスカートを翻しながら、スカサハがやってきた方向を肩で示した。井戸の少し先の平らな地が、師であるシャナンとオイフェが選んだ訓練場である。
今日はシャナンの訓練の日である、血のつながりがあるからか、どちらかといえばスカサハはシャナンのイザーク式のほうがオイフェのグランベル式よりも体に馴染んだ。どうしてもシャナンの訓練日のほうが熱が入る。
もちろんオイフェの訓練はイザーク式と違うためにとても勉強になる。受け方、受け流し方、返し方、イザーク流と似通ったところも違うところも、スカサハにとって楽しみだった。
「訓練は? もういいの?」
ラナはスカサハを見上げながら首をかしげる。確かにいつもの訓練ならばこんなにも早い時間に終わることはない。今日は特別な事情があった。
「ああ、使ってた剣が壊れちゃったんだ。直らなかったら新しいのを見繕ってくれるって」
金属が腐ってしまっていたのか、見事なまでに再起不能だ。練習用の刃のない剣だったから少し手入れが雑になっていたのだろうか。シャナンとの打ち合いでどうにも剣先が安定せず、具合が悪いといじくりまわしていたら根元の部分が欠けてしまった。
「ラナは、今水汲みしてるっていうことは杖の訓練は?」
スカサハがシャナンに剣を習っているように、ラナはエーディンにシスターとしての立ち居振る舞いや杖や魔道書を日々習っている。マナに関してはスカサハも学ぶのだが、教育者の立場に立ったエーディンはいつもの違う。とても厳しく、容赦がない。
「うーん……」
ラナは少しだけ困ったような声を出した。声につられて顔を盗み見ると、唇を尖らせて顎に片手を置いていた。眉根も少し寄っている。
ラナはたった一歳下だとは思えないくらいに小さい。悩めるラナの頭は、ふわふわの髪の毛がスカサハの肩にぜんぜん届かない。ラクチェはもっと背が高い。こうして並んでラナをみるとその小ささがより一層感じられる。体も強くないのでラナは武器を持たない、鍛えない。だからかもしれない。
「最近ね、ちょっと上手くいかないことが多いの。お母さまからも怒られてばかり」
「そっか」
「そう、だから、気分転換も兼ねて、ね」
眉根を下げて弱弱しく笑うラナに、スカサハは何と言っていいかわからなかった。助けになること焼が軽くなるようなことを告げてあげたいけれど、気の利く言葉が分からない。
笑ってはいるものの、ラナは明らかに落ち込んでいる。
ラナは天才ではないが努力の人で、何度か失敗を繰り返して身に着けてきた。幼馴染のスカサハはそれを知っている。
何度も繰り返す失敗は成長に欠かせないものだ、というのがここティルナノグの大人たちの教えである。身につけるまでは何度も失敗していい、それを学び、身に付けた後に失敗は許されない。許されない失敗を回避するために、今、何度も失敗を重ねるべきだと。
だから失敗するのは当たり前で、失敗だけで弱音を吐くほどにラナが落ち込むのをスカサハは知らなかった。
失敗は繰り返していいのだと、いつも言われたことはきっとラナは耳にタコができている。それを今自分が繰り返しても何もラナには響かないのだろうとわかっている。だからこそスカサハは何を言うべきか悩んでしまった。
そして、自分がラナの悩みにどこまで首を突っ込んでいいのかも自信がない。スカサハとしてはラナに何でも話してもらいたい、打ち明けてもらいたい気持ちが強かった。ラナのことなら何でも知りたいし、ラナの悩みを解消してあげたいと思う。しかしそれはスカサハの希望であって、ラナがそう思ってくれるかはわからない。
結局、臆病なのだ。
「……ラナは、シスターでさ」
スカサハはラナの顔から視線を逸らした。少しばかり気恥ずかしい。足元に視線を落とすと、ラナのワンピースの裾が歩幅に合わせてヒラヒラと揺れ動く。もう濡れた裾は気にならないのだろうか、体に合わせた自然な動きに、地面の影も合わせて揺れる。
ラナがうん、と小さな頷きと共に相槌を打った。
「俺らを助けるんだって、昔いってくれたよね。俺らは戦うことしかできないから、戦わないラナは俺らができないことをやるって」
「……いったかしら、そんな偉そうなこと」
「いったよ、ニュアンスだけど。いつだったかなぁ、冬かな、火を入れる前の暖炉の前でさ、レスターに突っかかってた」
「あったかもしれない。でも、すっごく前のことよねぇ」
「そう、俺らがまだ小っちゃかった時のこと。俺、あれ聞いてラナってすごいなって思ったんだ」
「……そうなの?」
ラナの声が少しだけ照れていて、それを感じ取ったスカサハもさらに照れてしまう。改まって言うのは恥ずかしいが、本当にそう思ったのだ。
火を入れる暖炉の前、という場面がスカサハの胸の中にずっと残っている。あれから何年か経ったが、いまだに冬の日、まだ冷たい暖炉の前に立つと思い出す光景なのだ。
「だって、俺らは何も考えずに剣を取って、弓取って、戦うってことになってるけど、ラナはきちんと考えてるんだなぁって」
「スカサハ、何も考えてないなんて言いすぎよ」
「いやぁ、考えてないって。だってできるからやってるだけだろ、俺らは。もてるから剣を持つし、狙えるから弓を持つんだよ」
実際にレスターやデルムッドたちと話したこともある。父が、母がともっともな理由をつけてみても、結局はなんとなく勧められたからその武器をもち、勧められたから訓練を行い、そして楽しくなっただけだ。
もともとは帝国軍も知らない時から剣を手にしていたのだから、仕方がないのだろう。悪いことだとは思いはしないが、そういえば、とふと思うこともある。
ラナはシスターを選んだ理由があるのに、と。
「……そんなこと、ないのよ。本当は」
ラナは小さな声で呟いた。あまりにも小さな声なので、とぎれとぎれにしかスカサハの耳にうまく届かない。こういう時にスカサハは、離れてしまった二人の身長差が残念で仕方がない。すこしかがんで、ラナに顔を近づけた。
「だってわたし忘れていたもん、いったこと。大げさにいっただけなのかもしれない、わたしがシスターを目指したのはね、ただ、悔しかったからだと思うの。わたしだけ、やることがなくて」
ラナは生まれつき体が弱く、剣や弓を持つには頼りなかった。あきらめの悪いオイフェは何度か挑戦させたが、匙を投げたのもオイフェだった。ラナは昔からやる気はあったが、体がついていかなかった。
そういえばそんなこともあった。てっきりラナも納得の上だとおもっていた。悔しかったのか、といまさらながらにスカサハは新鮮である。
ラナがシスターになるといったとき、その理由を教えてくれた時にスカサハが感じたあの気持ちは、しかし今も変わらない。
「そっか、知らなかった。……もしできたら、ラナも弓とか剣とか、持ちたかった?」
ラナはどちらが似合うだろう。男勝りに戦う妹しかスカサハは知らないが、シャナンやオイフェが話してくれた話では、一国のお姫様でも剣を華麗にひるがえして戦場を駆け巡っていたという。女性の槍使いもいたということだ。
ラナは今の、白く長いシスター然としたワンピースを着てにこやかにゆっくりと歩いてくる姿しか想像できないが、もしも武器を持ったらきっと違う姿なのだろう。もっと活発に、しかし優雅に。
スカサハがあれこれ考えている隣で、予想外の質問をされたラナも、うーん、と首を傾げてはあれこれとつぶやいている。
「そうね、考えたこともなかった。何がいいのかしら。なにがいい、というか何をやってみたいか、よね。やっぱりお母様のお姉さまのお話を聞いてるから弓はとても憧れるけどね。……お母様やお兄さまには内緒にしてよね、スカサハ。スカサハにだから話すんだから」
思わず飛び出た秘密の宣言に、スカサハは少し驚いて頬を染めた。一度頷き、内緒だね、と念押しをする。
「うん、内緒。……私とスカサハだけ。あのね、もしもできるなら、私……細身の剣、もってみたかった。白い馬に乗ってね、細身の剣で」
きっとそれはオイフェやシャナンが話すところのお姫様、デルムッドの母君であるラケシス姫のイメージに近いのだろう。
スカサハも想像してみる。白い馬に乗るラナ。服装は、姫のイメージを利用して白いドレス。真っ白で、少しだけ花嫁のようだと恥ずかしいことを考えながら、その想像のラナに細身の銀の剣を抜かせる。真っ白なラナが持つ、銀の輝き。暖かい金色の髪が剣に反射して、きっと綺麗だろう。
「いいね、似合うよ」
「そうかな、……考えてもみなかったけど、恥ずかしいわ」
「なんでレスターに内緒なの?」
エーディンに内緒なのはなんだかわかる気がする。いくら仲のいい母娘でも立ち入らない領域はあるものだし、スカサハも実の子供と同じように育ててもらっている身だ。「母」のことはわかる。
しかしレスターとラナは驚くほど仲がいい。ティルナノグでは皆が一つの家族、一つの兄弟のように育てられてはいるが、実際に血のつながりは強いと感じることがあった。レスターとラナの関係も、やはり他の「兄妹」とは少し違う。きっと、スカサハとラクチェが違うように。
「ええと、だって……ええと」
ラナは少し言葉を濁した。そんなにも答えにくい質問だったのかとラナの顔を見下ろすと、少し頬が赤い。唇を突き出すように尖らせ、瞳を伏せている。
なんだか見てはいけないものを見た気がして、慌てて目をそらした。
「……お兄さまも、きっと、私に弓を持ってほしいんじゃないかなって思って」
「ああ、そういう……」
納得のいく答えが返ってきたことに少しだけ驚いた、なぜこの答えにあんなにも躊躇が必要だったのか、それはいくら考えてもわからない。
スカサハは当たり障りのない言葉を返すことにした。
「でも、意外だな。ラナも弓を持ちたいって言うと思ってたよ」
「だから内緒よ」
ラナは半歩スカサハの前に立ちふさがり、人差し指を口角を上げた唇の前に立てた。ああ、とスカサハは相槌を返した。
丁度坂を上り切り、家はすぐ目の前だ。軽く後ろを振り返ると、木陰からラクチェがこちらを見て何やら手を振っている。こちらへ来いということだろうか、壊れた剣の目途がたったのかもしれない。
振り返ったスカサハにラナもつられてラクチェを見たようで、桶を運ぶスカサハの腕に柔らかなラナの手が触れた。
「スカサハ、ラクチェが呼んでるわ。ありがとう、ここまで運んでくれて」
「いいよ、目と鼻の先だし、やり始めた仕事はきちんと終わらせなきゃね」
ラナはスカサハの目を見上げた。スカサハは射ぬかれたように感じながらも、まかせて、と頷きながら微笑んだ。
「ありがとう、いつもスカサハは私が困ってる時に助けてくれるのね」
「そうかな」
「そうよ、本当に、いつもありがとう」