ねがいごと


 少しずつ季節が傾くこの時期がセリスは昔から好きだった。
 山間にあるティルナノグで夏は短い。サッと暑い太陽が過ぎ去ると、長い冬の前に一時涼やかな時節が訪れる。短い実りの時期、最後の盛りとばかりに名残の花が咲き、種をつけようと実を膨らます。
 短い日照時間を逃すまいと幼いセリスの背丈ほどに伸びる草木もあった。重々しく首を垂れる穀類の波は、その身をもって風の形を教えてくれた。太陽が山の端に早々と姿を隠してから、遅れるように赤く染まる空を眺めるのが好きだった。
 赤く染まる空は、暮れなずむ夕雲は、セリスにとってティルナノグの良い思い出の一つだ。
 そんなことを思い出していた。
 平地では山の端に陽が隠れることが少ないと気が付いたのは、ティルナノグを出てからどれくらい経ってからだろうか。少なくとも砂におおわれた大地に足を踏み入れてからは、山を見かける方が少なくなった。再びトラキア半島で、形や質は違えど聳え立つ山を目にして感銘を受けるほどには、地形すら違う異国を進軍しているのだと実感したものだ。
 ここは再び山の遠い町である。地平は家並みにそって凹凸を繰り返し、もう少しすれば平坦な甍の波が赤々と燃える色に色づくのかもしれない。まだ日は高く、沈むには時間がかかるだろう。
 今日の空は何色になるのだろうかと当てもなく考える。
 赤く染まる夕暮れと、色を失うように暮れていく日との違いをセリスは知らなかった。きっと何か違いがあるのだろうが、それが何かは分からない。
 季節なのか、時間なのか。運命や神の思し召しか。明日の天気だというものもいるだろう。
 吹いてくる風は、陽が頭上にあった時よりは湿り気を帯びている。雨でも降るのかもしれない、セリスに分かるのはそんなことだけだ。
 雨が降るとすれば明日の進軍に差し触りが出る。オイフェやセティはセリスよりも天候をよむのに長けていた、一度相談をしておこう。
 幼い時分に戻っていた頭が、一瞬に解放軍盟主としてに切り替わる。オイフェたちと組み立てていた予定を総ざらいしていると、上の方から何やら悲鳴のような短い叫びが聞こえた。
 ここは占領した地権者の屋敷で、階上といえば屋上を残すのみである。セリスはパッと顔をあげると、短く息を吐いて屋上へ駆けあがった。


 困ったように恥ずかしそうに、屋上の床についたシーツを風をはらませて掃うのはラナだった。傾き始めた陽はいつもよりもきらきらとラナの癖っ毛を輝かせ、光の粒が顔の周りで踊っているようにも見える。体の線を隠す厚めの生地のワンピースを翻し、向きを変える。
 足元には籠の中に折りたたんだシーツが何枚か積み上がっており、見る限り今持っているのが最後のシーツのようだ。バサバサと音を立てながら埃を掃ったシーツはラナよりも大きく見えるのに、戸惑うことなく器用に畳んでいく。
 何とも気が抜けるほど平和で手慣れたその動作に、なんだかセリスはかける言葉を失ってしまった。
 畳み終えたそれを籠の一番上にのせて、重しをするように体重をかけるまでの一部始終をしっかりと見終わって、ようやく声をかける。口の端に浮かぶ笑みはどうしても抑えられなかった。
「ラナ、大丈夫? さっき何か聞こえたけど」
 楽しくなってきたセリスは、屋上に上ってきたことに気が付いていないラナのためにわざと足音を立てて近づいた。
「セリス様! いやだわ、こんなところ」
 ラナは一瞬肩を縮め、パッと振り向いた。「恥ずかしい」
 こらえきれず、声を出して笑った。ザリザリと天井に積もった細かな砂がセリスの足音を強調する。ラナの隣まで行くと、顔を覗き込むように少し屈んだ。
「何か恥ずかしいことをしていたの?」
「そういう事じゃないんですけど……」
 やめてください、と言いたそうに、それでも嫌な顔はしないでラナは大慌てで顔を逸らした。
 分かっていて敢えてからかってしまいたくなるのは、幼馴染としての性分だろうか。素直でないと思いながらも、ラナと話すとついついやってしまう悪癖である。ラナは足元の籠に視線を向けたり外したりと、いつも以上に落ち着かない。
「洗濯、今日は晴れたね」
「ええ、いい天気で。助かります。このあたりは屋根が平らだから、屋根の上で物が干せるなんて不思議だわ。ティルナノグではそうじゃなかったのにって、今更だけど、狭い世界に生きていたんだなって実感するんです」
 ラナの言葉は珍しく足早だった。何かあったのかと表情を盗み見ようとしても、いつもなら優しく微笑んでセリスの顔を見ていてくれるのに、さまよう視線はセリスと噛み合うことがない。
 体の前で絡み合う両手も忙しなく、何だか居心地が悪いのかそわそわしている。
「もしかして、都合の悪い時に来ちゃったかな?」
 びっくりしたようにラナが一瞬動きを止めた。
「ーー誰かと待ち合わせとか。邪魔をしてるなら、申し訳ない。すぐにお邪魔するよ、ラナ」
 自分で言っておいて胸の中が重くなった。何かと耳に入る立場だが、ラナのその類の噂は聞いたことがない。だとしたらよほどうまく立ち回っているのだろう。
 だが他にこの落ち着きのなさは考えられない。セリスには言えない、知られたくない恥ずかしい秘密が待っているのではないか。人気の少ない屋上。これから迎える夕暮れ。待ち合わせていてもおかしくない。

 導きたくない答えに沈む胸中を笑顔でひたかくす。

 軽く頭を振って、一歩ラナの脇から離れようと動いた瞬間だった。
「っ、いいえ、ちがいます!」
 ラナの小さな手が素早くセリスの裾を握る。目が合った。
 変わらず大きな目である、映る自分の姿まで見えるのではないだろうか。揺れ動きながら、夕暮れに近い光をキラキラと反射して、真っ直ぐセリスの眸に届く。
「そんな相手いません、あの、ここに居ていただいて大丈夫、お嫌でなかったら、ですけれど、あの、……ええっと。……はい」
 尻すぼみになるラナの言葉に、初めは目を丸くしてしまったセリスだが、だんだん胸の重みが取れてくる。むしろ晴々しい気持ちである。
「はい」
 ラナをまねて言葉を返すと、もう、と小さな唇を突き出してラナが膨れた。さっきまで真っ直ぐ絡み合っていた視線が、セリスの意地悪に堪えたように逸れてしまう。
 セリスはそっと、裾を掴んでいたラナの指先を優しく撫でた。一瞬跳ねたラナの白い指は、緊張したように更に力を込める。微笑みながら、そっと指をほどいた。
 されるがままのラナに、優しく問う。
「ねえ、じゃあなんでそんなに焦っていたの?」
「それは……」
 ラナの突き出した唇はなかなか元に戻らなかった。セリスの掌の中で、ほぐされた指先が恥じらうように丸くなる。
「……髪をね、乾かしきってないの」
「かみ?」
「はい。さっき、あの、髪を洗って……ほとんど乾いているんですけれど、まだちょっと濡れていて。こんなはしたない姿、お見せするわけにいかないじゃないですか。誰にも会わないだろうなんて高をくくってたのが悪いんですけれど、ここにいれば、すぐ乾くかななんて思っていたので」
 もう片方の手で、ラナの髪を触った。一瞬ラナは強く目を閉じ身を固くしたが、セリスの優しく撫でるしぐさに諦めながらゆっくりと瞼を開ける。
「濡れているでしょう」
「そうかもしれない。ふふ、久しぶりにラナの髪に触れた」
 恥ずかしいんです、とラナは頬を赤らめながら視線を下ろす。
「わたしの髪、癖っ毛ですから。セリス様のまっすぐな髪がいつだって羨ましいんです。せめてお母さまみたいな、綺麗なウェーブが良かったわ」
「さっき、一番初めにここに来た時。ラナの髪の毛かな、顔の周りできらきらしていて、すごく綺麗だったよ」
「セリス様はお上手だから」
 ふふ、とセリスは指を立てて力をいれずに髪を梳く。少しだけ湿り気の残る癖の強い髪は、確かに自分のものと違い素直に通してはくれない。途中であきらめて、指でくるりと一房巻き取った。
「昔からあこがれて、ティルナノグでは毎日100回髪を櫛梳いていたんです。そうすればお姫様みたいな髪の毛になれるって誰かに言われて」
「僕は昔からラナのふわふわの髪の毛が好きだよ。……ずっとこうしてみたいと思っていた」
「セリス様」
 嬉しいな、夢が一つ叶ったよ、とセリスは指に巻きつけた髪の房に、そっと唇を近づけた。


おわり