ドタドタと忙しない振動が頭に響く。もっと早く走れないのかと心で叱咤を繰り返し、ラナは短い足を必死に動かして荒野を駆けた。足は遅いが、荒れ地を駆けるのはなれている、ティルナノグの恩恵だ。いくつ積み上げたかわからないものの一つをこうして披露しながらも、それでも先導する兵に追いつけないまま、天幕についた。辺りは物々しく騒々しい。吐きそうになる程短くなる呼吸を腹に込めた力で抑えて、一度大きく呼吸をする。
にっこり、笑う。
上がる肩は、荒い息は仕方がない。汗ばむ肌も、乱れた髪も。それは単なる付属品だ。大切なのは、ラナがラナであることで。ぎゅ、と杖を握りしめる。鞄の存在を肘で確認する。
「ラナです、入ります」
優しく朗らかに慈しみを湛える声で、態度で、振る舞うことだ。
「失礼します、セリスさま」
どんな凄惨な状況でも。傷ついた戦士を癒し、慰めるために。
セリスの傷は流れ矢によるものだ、当たりどころはそこまで悪くないだろう。深いのはよろしくない。それでも天幕まで動いて、または運んでこれたのだ。悲観するほどではない。ただ、毒が塗られていなければいいが。傷を治すことと毒を取り除くことは違う。一つの処置を誤れば取り返しのつかないことになりかねない。
杖の知識、薬草の知識。母から習って詰め込んだものだけでは足りない、土着のものでも他国のものでも、貪欲に取り入れた。可能性は一つでも多い方がいい、知らなければ、助けられたはずの命を失うだけなのだ。
うん、毒はなさそう。一安心。
淡々と処置を行いながら、ラナは苦悶の表情を浮かべるセリスに優しく声をかけた。
これから行う処置のこと。どんな反応が起こるか。と言ってもラナは処置をする側だから、過去に処置した人たちの意見だけれど。それから、天幕の外の話。
後方とはいえ、最前線とはすぐ近い。剣戟の音は流石に届かないが、誰かの雄々しい叫びは聞こえてくる。あれは誰でしょうか、ふふ、スカサハだったりして。今日はまた、ラクチェとスカサハが無茶な賭けをしているみたいですよ。ねえセリス様、そろそろあの二人、叱ってくださらない?
そうやっているうちに、杖の詠唱の準備が整う。目を閉じて、決まりきった文句を慣れた調子で唱えていく。
宝玉の熱、光、引っ張られ失われていく魔力。それらが混沌となって消えた後には、セリスは、蒼白な顔つきはそのままだけれど、すっかり癒えた肢体をグッと縮めて、伸ばした。
あとは慣れたもので、お互いテキパキと支度をする。ラナは次に待つ怪我人の元へ駆ける準備を、セリスは戦場へ君臨する準備を。
「ーーいつもありがとう、ラナ。なんだか情けないね、いつだってラナにはこうやって情けないところばかり見せていて」
「何をおっしゃるんですか、セリスさま。きちんと格好いいところだって見せていただいてますわ、それに、これからも」
「うん、そうだね。任せてよ、ラナに一番いいところを見せないと」
はは、と笑う顔も、まだ血が蘇らないから幽霊のように白く頼りなく見えて、少しだけラナは吹き出した。
「うん、ラナの笑顔はいいね」
「え?」
「笑い顔。えがお。いつだってラナは、僕に会う時に笑っていてくれるから。大変なときでも、怪我をしていても。安心するよ、まだ大丈夫なんだって」
荷物を鞄に詰め込む手が止まった。ぼんやりとセリスを見る。慣れた様子で一人で軍服を身に纏うセリスを。グランベル風の騎士衣装ではなく、一人で対処できるように各所にイザーク流の仕様が施されている。単身、身に纏えるように。何かあった時にすぐに動けるようにと、オイフェとシャナンと相談して作られた戦装束は、解放軍の盟主としてはきっと適してはいない。しかしそれがセリスらしいとラナは感じている。
「そうですか」
セリスがテキパキと身支度し終えるのを、間抜けな返答で見守った。ラナには手を出す隙もない。
「これは僕個人の意見だけじゃなくてね、君に直してもらった兵士たちからよく聞く意見だ。ーーこんな場所で言うべきじゃなかったかな」
「いえ、十分です。わたし、嬉しく思います。セリスさま」
そうか、と、魅力的な笑顔を向けたセリスは、最後とばかりに大げさにマントを翻して。「それでは私は一足先に」
「はい、失礼します」
カチャカチャと金属の擦れ合う音と共に足音は去っていく、我に帰ってラナは慌てて片付けを済ませて天幕を出た。
ラナを待つ負傷兵は多い。
勝戦を重ねてはいるものの、解放軍は弱い。弱いものの中に飛び抜けて強い数人がいて、その数人に助けられている。セリスもそうだし、幼馴染も、ラナの兄レスターもそうだ。
名前を広く知られるたった十数人の聖戦士の末裔と、名も知られずに血を流す民たち。
ラナは自分がどちらなのかわからない。特段の力を持っているわけではないが、それでも杖を使えるのは数少なかった。それゆえに、ラナの力はたった十数人の、選ばれた強者のために振るわれることが多い。
つまりそれは、沢山の人たちを切り捨てると言うことだ。ラナが杖を使えば助かっただろう命を、足を、腕を、見捨てていると言うことだ。
この笑顔にどれだけの価値があるのだろう。
たしかに、ラナの笑顔を褒める声はたしかにあった。ラナに直接礼を告げる兵もいる。それと同じくらい、なにくそ、という罵倒は多い。
何を笑っていやがる、俺の怪我がそんなに嬉しいのか、誰のために戦っていると思ってるんだーー
俯いたラナは首を振った。切りそびれた髪がふわふわと頬を叩く。こそばゆい感覚が煩わしくて、顔を上げて高いところで髪を結ぶ。
笑顔はラナが努めて纏う戦装束だ。いつでもどこでも身に纏える。
ラナの戦場はセリスとは違う。敵と戦うことは少ない。できないわけではないが、それ以上に適した場所があるだけだ。そのために、ラナは全力を尽くすと決めている。
ティルナノグで、セリスに助力を誓ってから。辛くても、苦しくても、一人でもラナが救える命があるならば、目の前にしたとき辛い顔だけはするまいと。
少しでも、笑って、微笑んで。見捨てたものたちの辛さを少しでも癒すようにと心を込めて。
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