よすが


 久しぶりに顔をのぞかせた太陽がきらきらと白銀の世界を照らしている。穏やかで風もない世界は、まるで一枚の氷のようだとラナは思う。
「わー!」
 なんのあともついていない白い大地に一番初めに足跡をつけたのはラクチェだった。城から飛び出した勢いのまま、大きく弧を描くように飛び出す。
 ぼすん、とすぐに顔から突っ伏した。
「ラクチェ!?」
「大丈夫……て、つっめたぁい!」
 すぐに起き上がろうとして、降り積もった雪に両手をついてみたはいいもののすぐにずぶりと沈み込んでしまう。もがいて、ようやくキラキラの結晶で飾りながらラクチェは起き上がった。
「冷たい! ねぇラナ、すごい、こんなにたくさんの雪が降るなんて!」
「そうね、すごいわ! こんなにつもってるなんて」
 ラクチェの興奮した叫びと共に、滅多に大きな声を出さないラナも笑い声を上げる。
 二人の育ったティルナノグは、冬は泉の水面が厚く凍りつく山岳地帯にあったものの、雪は降らなかった。冷たい、全身を凍えさせてしまうような冷たく厳しい風の吹く郷だった。数年に一度降ることはあったが、湿った雪、雨と混ざり合ったような雪で、地面を巨大なぬかるむ沼に替えて凍らせるだけで、こんなにも白く美しく積もることはなかった。
 数日前から降り出した雪に、戦友のフィーやアーサー、雪国シレジアで育った彼らは少しうんざりとした表情を見せていた。雪は見飽きたわという。それでもその言葉や表情に楽しそうな色が見えたのは、やっぱり故郷を思い出すからだろうかとラクチェは思う。
 遠く離れた大陸の片隅にいてもなお、故郷を思えるよすががあるのはすてきなことだ。
 ラクチェにとっては幼馴染たちがそうだった。ラナ、スカサハ、デルムッド、レスター、セリス。兄妹、血のつながりを超えた大切な家族。
 きっとフィーたちにとってはそういうことなんだろう。雪。一面の白銀の世界。だって雪が降り始めたその夜、燃え盛る暖炉の前で、温めたミルクを片手に雪の日の話をしてくれたのはフィーだった。
 針葉樹林につもる雪の話。沢山積もった時にどうやって外に出るか。雪の上の歩き方。遊び方。ペガサスが白い理由。
 次の日みんなが寝坊してしまったけれど、降り続く雪が進軍をとどめていたし、実際この地方でもこんなに雪が降るのは珍しいという話をデルムッドが入手してきたため、上層部は緊急会議なんていう運びになったりして、問題にはならなかった。
 うわさを聞き付けたデルムッドは、普段なら会議に出なくてもいい立場なのに駆り出されたから、最近やけにデルムッドと仲がいいラナは不満げに頬を膨らませていた。
 そしてようやく止んだのが今日だ。これまで薄闇の朝だったのに、やけに眩しくてラクチェが目を覚ましたのが一番。そのあとに大興奮でラナを揺り起して、十分に着こんだラナと二人でレスター、スカサハ、デルムッドの寝室へ寝込みを襲いに行くと、おんなじことを考えていたらしい三人と鉢合わせた。
 はしゃいで一番に雪の上に印をつけたのはラクチェだったが、あっという間に男性陣は遠くにまで行ってしまった。誰が一番早く一本だけひょろりと緑をのぞかせる木の下に行けるかを競っている。ラナですら雪の上に飛び出して、数歩進んでは転げて、髪に雪を絡ませながら笑い声を上げる。
 ラナの姿をほほえましく見守るラクチェの後頭部に、冷たい衝撃が走った。
「おいラクチェ、何をぼんやりしてんだ。こっちにこいよ!」
 頭に手をやると、雪の塊がまとわりついている。遠くで手を振るのは次なる雪玉を片手に抱えるスカサハで、レスターはその雪玉をせっせと作っている。デルムッドは木の根元まで足跡を付けたあと、一歩一歩踏みしめながらひざ下まで雪にうもれてラナの元へ向かっていた。
「やったわねスカサハ! 覚悟なさい!」
 ラクチェは高らかに笑い声をあげて跳ねまわった。片手に掴んだ雪を手早くまとめ、また転げながら幼馴染の元へ投げやった。



 雪の上というのは脚を取られるからか、普段はもっと体力が続くのにあっという間にみんな息が切れてしまった。気が付けば解放軍の面々があちらこちらではしゃぎまわっている。
 しばらく雪合戦を楽しんだあと、デルムッドとラナは手を取り合ってどこかへ消えてしまった。スカサハは最近仲のいい淡い色の髪の少女を、レスターは友人を見つけておおいと手を振りながら離れていった。
 一人残されたラクチェは雪の上に転がって、ゆっくりと空を仰いだ。背中がじっとりと雪に濡れて寒いけれど、差し込む陽はびっくりするほどに暖かい。ひとかけ口に含んでみると、舌の上で溶けて消えてしまう。
 視界の端にどうにか映り込む城の尖塔にもキラキラと雪が積もっている。友人たちのはしゃぐ笑い声が耳に届く。瞼を閉じると、さんさんと降り注ぐ陽の光か、はたまた照りかえる雪か、光がはじけるように感じられる。
 近づく足音を聞き取って目を開けると、カーテンのようにたなびく黒く美しい髪が垂れ下がっていた。陰になりながらもハッとするほど美しい切れ長の瞳が優しく微笑んでくれる。
「風邪をひくぞ」
「さっき動き回った後だから、大丈夫です」
「汗が冷える」
 そうかも、とラクチェが答えると、ほらと大きな掌が差し出された。思わずびっくりして二三度瞬きを繰り返す。
「どうした」
「ううん……シャナンさまに会いたいなあって、ちょうど考えていたところだったから」
 にっこりと笑ってラクチェは差し出された手を取った。
 今度瞬きを繰り返すのはシャナンの方である。不意をつかれたと顔に書いてあった。
 力強く握られ、引き寄せられる腕の力にラクチェの頬は上気した。しかし寒空の下動き回った後だ、どうせもともと赤い。いまさら恥じることはない。
「シャナン様、あったかそうな格好ですね」
「ラクチェも」
「あったかいです、でも手が冷たかったの」
 さっきまで動き回った後でも、さすがに素手は指先がかじかんだ。今はシャナンの大きな手に包まれている。
 起き上がった後も、シャナンはその手を放そうとしなかった。それがうれしくて、ラクチェの頬が一気に緩む。
「シャナン様、あったかい」
 シャナンは空いた片手でラクチェの髪に残った雪のかけらを払い、薄い唇でゆっくりと弧を描いた。

2017/12/10