目に見えずとも 6



 前日である。
 ラナの出立はこの国の通例においてはさほど目立つものにはしないことが決まっている。それでもアレスの感性から言えば十分派手だし、ラナも少しだけ気後れすると言っていた。
 王と王妃が同じ意見だというのに変えられない風習というのは不思議なものだ。望めば、単騎馬をかける程度でいいものではないのか。もちろん望めばどんなに派手であろうと勝手だとおもう。好きなようにしてほしいとは思うが、強制はするものではないだろう。
 支度のために早く起きなくてはいけませんから。
 交わりの後でラナは少しだけ眠そうにつぶやいた。物音で起こしてしまうだろうからと自室に戻ると体を起こす。
 いいからここで寝ろと口走っていた。ラナの答えを待つ前に細い腰を強引に引き寄せる。でも、と抗おうとするが所詮女の力である。腕力に勝てるはずもなくアレスの隣に横になった。
 いつものように少し距離を開けて眠ろうとするラナの肌を手の甲で撫でる。おやすみなさいという小さな挨拶とラナの掌がアレスの手の甲を包んだ。しばらくして規則正しい寝息が聞こえてくるがぬくもりは変わらない。
 アレスは微睡みながら以前ラナと交わした会話を思い起こしていた。この旅程を伝えた時の話だろうか。珍しく二人で長く会話を重ねたひとときでもある。
 ラナは旅先の目的地を覚えていると言っていた。ヴェルダン城の北の森を抜けた先にある、地図にも乗らないような小さな町だったが温かな歓迎を受けた、そのことを覚えていると。
 アグストリアは文化も風習もヴェルダンとは違う。アレスは隣国とはいえいまだ訪れたことのないヴェルダンのことは知らない。文書と、ラナの言葉のみの知識である。
 蛮族、と先王のころには誹りも受けていた。今でこそ王レスターの努力と解放軍で築いた親交あって文化的に花開いてはいるものの、それでも耳に届く限りアグストリアの文化のほうが洗練されているのだろう。
 町並みも異なっているとラナは言った。家の造りも、町の並びも、そこに吹く風も。見えぬ国境を渡っただけでまったく異なるように思えたと。それでもさえずる山鳥の可憐な声だけは変わらずに、感動したのを覚えていますと。
 国として公のものでは交流がなかったとしても、深い森があったとしても、そこに住む人たちに交流がなかったのか、ラナにはわからないがそれがとても不思議だったと。これまで育ってきたティルナノグとも解放軍に従軍しながら見てきた町とも、アグストリアは違う匂いがした。
 これが嫁ぐことになる国の匂いなのだと、胸いっぱいに息を吸ったと小さな声であったがラナは語った。
 市井にとって国境が何の意味を持つのかアレスはすでに忘れてしまった。傭兵の時には国境など意味がないものだったが、あの混乱の世では国境に意味があったのだろうか。
 そもそも、アレスは一つの町に定住していた記憶が薄い。そうなればこそ国の境だけではなく町の境にも意味を見いだせないのかもしれない。
 王となってしまえば、国境は何よりも繁栄のための重要な外交問題というだけで、文化や町並みといったものは目に入らない。
 ダーナと違う、ということくらいはわかる。
 ラナにとってはアグストリアの第一印象がそこの町だった、という話だ。歓迎してくれた町にも、その人たちにも、ラナは好印象を受けたようだ。その話を寝物語に聞いたときに少しだけ安堵したのは王としてか、それとも夫としてかは分からない。
 とにかくラナがその町に好印象であるならば、たとえラナが国のための囮に使われたとて異論はないだろう。
 そもそもラナのわがままでの外出である。異論があろうと知ったことではない。
 人生のすべてを国のために尽くすのが王族なれば、こんなにも不自由なことはないとアレスは度々思うもののその不自由さのために権力を持つのだから仕方がない。
「ようやく町へ出れるが」
「はい」
 ラナの思い出話があらかた終わった後に、アレスは何となしの口調で疑問を口にしていた。
「なぜそんなにも町へ行きたい」
 ラナは少しだけ不思議そうな顔をした。唇が一度二度と言葉なく開き、奥に隠れる白い歯がちらりと見える。ためらいの後に答えたラナは首を少しだけ動かした。
「この国の人たちが何を望みどんな暮らしをしているのか見たいから、でしょうか。本当は、王妃としてではなくラナとして赴きたいという気持ちはいまだあります。もちろん、それがかなわないことは理解しています。ご存知の通り私はもともとはイザークの辺鄙な村の育ちですから、王族としての暮らしはいまだなれませんし、……考えも、きっと民衆のものを持っているのです。でも王族として……アグストリアの王妃として、これから、もうすでに月日は経っていますけれども、これから、アグストリアの一員として尽くすために、……知りたかったんだと思います。漠然とした何かのために尽くす、というのは私は苦手で、目に見える何か、誰か、人々の姿を見て、その生活や、支える暮らしや、守るべき何かを実感したかったんだと思うんです」
 この話をしたのは少し前のことで、長く降り続いた雨が止んだ日の夜だったと思う。ラナの長い髪が白い肩に流れる、その一房をアレスは何となしにからめとる。
「そうか」
「けれど、それは当初の理由で……。もしかしたら、意地になっていたのかもしれません。私、外を見たい、町に出たい、と言ったこと。口に出したら、訂正できなくて。何が何でも行きたいんですって、思い込んでいたのかも知れません」
 ご迷惑なお話ですけれど、と語尾は少しずつ小さくなる。申し訳なさそうに瞼が閉じられていく。
 確かに迷惑な話である。ラナがそれを口に出してから、ずいぶんと振り回されたような気もする。実際振り回されたのはアレスではなくデルムッドをはじめ働いた家臣たちであるが、なんとなくラナと接するときに常にその言葉が頭によぎったのは事実だ。
 しかし、ラナらしい、と素直に納得した。一途で頑固な女。なるほど、性格というのはそう簡単に変わるものではない。聞いた通りが果たして真実かはわからないが、それでも納得するのだ。
 それに王妃が国内に関心を持つのはいいことではないか。国政に口出すような強欲な女は願い下げだが、興味がないのも王妃としての素質を疑う。
 ラナは適度に、国政に関与しない程度の王妃としての仕事を十分にこなしている。国内にも関心を持ち、祖国ヴェルダンに利をもたらそうともしない。
 国にとっては懐妊の知らせがないことだけが不満の、そのほかに申し分のない王妃なのではないだろうか。
 アレスはかすかに口の端を釣り上げた。
「悪くない」
「……お許し、感謝します」
 ラナはアレスの歪んだ微笑みを見て、少しだけ顔色を緩めた。指を絡めて祈りに似た姿勢を取る。柔らかな色の唇からラナが吐息をこぼすのでふと顔を見ると、その口元はほころんでいた。
 手を組み夫に軽く頭を下げる妻にばれぬよう、アレスは軽く息をのんだのだった。
 ラナは笑っていた。婚姻の式以来のラナのほほえみである。笑うとこういう顔をするのか。それは普段の妻の顔とそう変わりがないが、新たな一面を見た気になった。
 今隣ですやすやと規則正しい寝息の続くラナは、いつの間に寝返りを打ったものかアレスに背を向けている。アレスの手の甲が撫でるのは滑らかな背中である。傷のない肌を慈しみ、アレスはそっと目を閉じた。

5
おわり