さてあれやこれやと仕事の合間にラナの外出の調整をさせていたものだが、季節はめぐりようやく日程が決定した。アレスにしてみれば一日くらいの外出など好きにやらせればいいと思うのだが、デルムッドを始め臣下たちにとってはそうもいかない。
もっともこの仕事を短くなく続けているアレスである、そう簡単に口で言っても一日の仕事量がどのくらいのものかはわかっている。臣下たちは仕事量の問題ではなく安全上の都合でというのだろうが、ラナもあれでいて解放軍では戦っていたはずだ。記憶にはおぼろげだが。のうのうと城に引きこもってアレスという王の凱旋を待ちわびていた古くの臣下よりも、戦いには慣れているだろうに。
いつかと問えば来春だという。来春といえばラナが嫁ぎ一年は経つ。それでもいいのかデルムッドに後でこっそりと尋ねさせようと思うものの、おそらくラナならばそれでいいと答えるのだろう。
夫婦だとはいえ、それなりに肌を合わせているとはいえ、心までも通じ合うわけではない。直接聞けばいいのだろうが、わざわざそこまでするものでもない。
それに加えて懐妊はまだかと口煩い輩が増えてきた。それが煩わしくて、最近はラナと顔を合わせるのも面倒くさくなる。
通じるものはないが、なんとなくラナの考えそうなことは分かってきた。遠かろうと、町を見られるのならばというのだろう。
当初の希望とはずいぶん違う形なのだろう。忍んで町に出たいと言っていたラナなのだ。公務として、王妃として、歓迎されて赴く町でラナの得たいものが果たして入手できるのだろうか。
頑なにラナが町にこだわる理由を知らぬアレスには、結局わからないことなのだろうが。
そこを聞くべきかと思った時期もあるが、それははるか昔だ。今はひたすらにどうでもいい。ただ妻と、王妃となった相手の唯一に近い願いなのだから、それはかなえてやるべきなのだろうと思うだけだ。
さてここまで懐妊の兆候はないものだが、果たして来春はどうなのだろうと意味もなく自分の腹を見下ろす。まだ衰えぬ体を包む、仰々しい礼服が見えるだけだ。女の体に詳しいわけではないが、懐妊の後は馬は良くないと聞く。
王妃として迎えた女だ。世継ぎを作るのは最大の使命である。しかしせっかく迎えた女の願いすら叶えられないとなれば、それは男が廃るというものではなかろうか。
しばしアレスは腹を見下ろし、なるようになるだろうと肩をすくめる。
結局その日程はデルムッドの口からラナに伝わった。了解していたよと崩した態度でそれを告げる。
「楽しみにしてるってさ」
「そうか」
ふと、アレスの前では一線を引き続け堅い態度を崩さぬラナが、デルムッドには砕けた口調になるのか気になった。なにせ兄妹のように育ったという幼馴染同士である。今は王妃と臣下という立場こそあれど、許された環境であれば砕けた言葉を使い、ラナも笑顔を見せたりするのだろうか。
尋ねようかとも思ったが、デルムッドの気の抜けた顔を見ているとその気も失せる。第一、なぜそんなことを聞くのかと質問を変えさせる方が煩わしい。
婚姻の儀の後、宴での来賓との
一時以来、ラナの笑った顔を見たことがないと今更ながら気が付くのであった。さりとてその記憶も片隅に追いやられたもので、笑ったという事実は覚えているがさてどんな笑い顔だったかなど記憶にない。果たして見ていたのだろうかとも思う。
結局は、相手にろくな興味などなくとも夫婦生活は滞りなく続くのだ。政局を見つめ、与えられた任務をこなし、国のため民のため、そして己とそれぞれの祖国のために尽力しさえすれば。
生きるか死ぬかの戦いに身を投じていた十歳代のことを思えば、王とは楽なものだ。そして王妃とは。
王宮に蔓延る腐敗も敵も一層はできていないけれども、目に余るというほどではない。所詮は武力でも政治力としてもデルムッドにすら勝てぬ腑抜けどもなのだ。それに正常な組織であれば多少の腐敗も敵もいたほうがいい。
同じ思想、同じ意見を持つ人などあろうはずもない。それぞれが立場が異なり、見るものが違い、考える頭が別にあるならば、諍いは生まれるのが自然なのだ。それが抑えられるかどうかが、アレスの王としての本領である。
若く未熟な王であることはアレス自身自覚がある。しかし隠された才覚のおかげか、それとも輝くミストルティンの威光か、これまではさほど目立った問題はなかった。これからもないことだけが願いではあるが、不変の平穏がありえないことは身に染みている。
起こるだろう問題の日が、ラナの外出の日にならなければいいと思うのは、アレスのわずかな夫としての優しさなのだった。
ラナの目的地に選ばれたのはいまだ先王時代の戦火の爪痕がのこる小さな町である。港町であり、主な収入は海産物に頼っていた。それが最近は小さいながら近年は隣国との交流が生まれ、栄え始めているという。いわば国境間近の交易拠点となり始めている。
隣国とは言うまでもなくヴェルダンであり、ラナの祖国である。
なんでもラナが輿入れの時に立ち寄った町の一つという。しかし乗り心地の良くない騾馬に揺られてきたラナが、そんな些細なことを覚えているとは思えない。現にアレスは教えられていたラナの旅程を一切覚えていなかった。
名目は慰問と視察だ。
ヴェルダンとの交流が今後も続くことは確実で、確かにその地での文化的内情は大きく変化するだろう。ヴェルダンの文化を直接肌で知る王妃が赴くのは内外的にも自然な流れである。
しかし多少の距離があるのは否めない。単騎赴くというわけでもない、王妃と取り巻きと、数十人にも数百人にも勝手に膨らもうとする家臣の数を必死に調整した努力の甲斐なく移動だけでも一日がかりだという。
「泊りか」
「はい、それは、必然のことかと」
問われた家臣は少しだけ怪訝そうな表情の中に意地の悪い笑みが見える。「デルムッド殿から報告が届きませんでしたか」
なるほどこういった些細なところから足の引きずりあいというのが始まるのかと王は薄く笑みを浮かべたくなる。返答のいかんによってはデルムッドへの風当たりが変わるのだろう。
「俺は知らん」
足を引きずろうと蹴落とされそうと、結局デルムッドはアレスにとって家臣だ。擁護の必要などないだろうし、今更デルムッドがこんなくだらないことで失脚するとも思えない。
アレスに詳細に報告していないのは事実だ。求めていないのも事実であるが。
王妃が複数日赴くというのであれば、婚姻から初めて夜を別に過ごすというわけである。毎夜同衾しているという意味ではない、求めることがそもそもできないという当たり前のことである。
これまではそれが普通だったのだ。王となってから女のいない夜が日常になった。それがいつの間にか、求めればいつでも応じる固定の女がいることが当たり前になっていた。
それが婚姻ということなのだが、何だかむず痒いような気持ちの悪いような、不思議な気持ちである。傭兵時代とそう変わりないことなのに、なぜなのかはわからない。
もういいと報告の終えた家臣を下がらせ、暫く一人で事務仕事に精を出す。もちろん扉の向こうでは近衛兵が堅固な守りを敷くのだろうが、アレスはいまだにこの国で最も強いのは自分である自負を失っていない。
アレスが王となり平定するのは難しいことではなかった。対話が有効な相手にはデルムッドが対応し、そうでなければアレスが何度か銀の剣と共に赴けばばただ剣の錆となって消えた。アレスが王になったのはミストルティンという先祖の後光ではなく、冷酷無比で戦闘狂の異名も理由の一つであった。
周知のことであるが、玉座に居ついてからは異名はとどろくことがない。しかし過去の異名が一人あるきし、地方に居つくという噂の山賊どもも成敗しに行こうものなら、たどり着く前に降参されてしまうのだ。
確認するまでもなく、この王妃一行の旅は油断を誘って敵をおびき寄せる目的を持たせられた。
その目的を持たせたのはラナではなく、おそらく計画を練ったデルムッドだ。標的となるラナには何の利益もない。デルムッドは王に歯向かうものをいぶりだすのが好きらしく、過去にも何度が似たようなことを行っていた。
王妃は、もともと神職の出である。解放軍に参加していたとはいえ主に後方支援、杖を使うのが得意はヒーラーだった。神器を継承しない割に周囲に認知されていたのは、解放軍盟主セリスの幼馴染でありヴェルダンの末裔故だろう。
その実魔道書をいくつか操る筈だがそこはあまり評価されていない。アレスも戦場でそう多く目にしたわけではない、実戦での経験があるということを知っているのみだ。
今はどうかわからぬが、戦いの腕はそう簡単に衰えるものではない。それはこの数年ろくに剣の振るう機会がなかったアレスが実証できる。
たとえラナがどうであれ、しかしデルムッドは構わず計画を練ったであろう。ラナたっての希望をかなえ、隣国との交流を証明し、一都市の発展を望む。その上国益を損なう輩どもをあぶりだせるとすれば、デルムッドはたとえ戦う力がなかろうとも喜んで幼馴染を送り出すだろう。
本来ならばアレスは怒るべきなのだろう。アレスが平定した国において、王妃を贄にしてまで炙り出す必要がどこにあるのかと。不安要素があるのならば矢面に立つべきはアレス本人ではないのかと。
アレスがその役目に立つには名声が知られすぎていることはさておいて、そうであるべきなのだろう。王として、王妃の夫としては。
戦いを求める気持ちは今も付きまとう。あのころはよかったと傭兵時代、解放軍時代、そうして平定までの時分を思い返すことは多々ある。しかし血なまぐさい時代を終りにしようと決意と共に玉座に座ったのだ。求めるべきではないと思う。
アレスが表ざたに剣を取るのは、国を揺るがすときだけだ。
だからデルムッドの計画にアレスは口をはさむつもりはない。
しかし同行者だけは確認しておかなくてはならないな、と書類に走らせるペンを止めた。ジワリとペン先でインクの染みが広がり、ゆっくりと続きを書き出す。
アレス程とはいかぬまでも剣技に秀でたこの国で腕の立つものは数多い。デルムッドはおそらく王城に残るだろうが、さてそれではラナの警護にはだれが付くものであろうか。どうせデルムッドの息のかかった者なのだろうが、久しぶりにその精鋭たちを呼び集めて手ずから訓練をしてやってもいいのかもしれない、と考えを回らせるだけで楽しくなってくる。嫌がらせでデルムッドでも呼びつけようか、忙しい家臣のことだ、仕事を山ほど抱えても王の剣の訓練の申し出は断らないだろう。
こうなれば当面の書類をかたずけてお楽しみと行こう、とアレスはインクの壺にペンを差し込んだ。