アレスの婚姻が決まった。我ながら無感動に、予想以上にとんとんと物事が進んだ。反発や反対があると思っていたし、それ以上に先方からの断りの手紙がすぐに届くだろうと思っていた。
政略結婚である。
なんともアグストリアの王にふさわしい。傭兵時代には何度も浮名を流したものだが、立場が変われば身のふるまいも変わるということだろうか。政略婚などという堅苦しい言葉がまさか自分の身に降りかかるとは思ってもいなかった。
結婚を考えなかったわけではない。傭兵時代の女はそもそも肉ただけの割り切った関係だったが、解放軍には心を許した女もいた。他でもないリーンのことである。
体の関係は誓って持ったことはない、それ以上にアレスにしては珍しく信頼したからだ。リーンからも一番に信頼され、頼りにされていた。
あれやこれやとくだらない話をしたものだが、その中でリーンがほかの男に恋心を抱いていることを知り、成就したことを知り、嫁ぐことを知った。嫉妬はしなかったが、それでもリーンがほかの男のものになること言うことに戸惑いがあったのだ。素直に喜べはしなかったが精一杯に祝った。その男が別の国で王になるというのでリーンの後見はアレスが立候補した。
解放軍にいた時分に肉体関係にあった女がいないわけではないが、さりとて将来を誓うような関係というものではない。つまるところ決まった相手もなくふらふらとしていたがために、今こうして政略的な婚姻などという状況になったのである。
アレスは別段嫌ではない。何も感じてはいない。ただ相手がかわいそうだと思っただけだ。
アレスにとって今はこの国がすべてである。王をしばらくやってみて面白さも苦労も十分に理解できた。王になる前では考えられなかった者だが、今は何よりもこの国のためを第一に選択している。
この立場で恋愛結婚よりも政略結婚は理に適っているし、何よりも今回は条件が破格のものだ。お互いにそうだと自画自賛ながらに言える。申し分のない相手に、申し分のない条件。こんなにも恵まれた関係は、おそらく恋愛結婚では築けなかっただろう。
実際、相手は解放軍にいたころにろくに会話をしなかった相手である。接点もなくお互いに興味がなかった。
隣国ヴェルダンの王妹、ラナ。近い将来アレスの妻となることが決まった相手だ。レスターの妹、セリスとデルムッドの幼馴染。アレスが白羽の矢を立てそれを受諾した。
ラナの兄レスターがこの婚姻を了承した理由はアレスにはわかる。王としてあの条件をのまなければ奴はぼんくらだと自信を持って言えるほどに、お互いに好条件がそろっていたのだ。そして幼馴染デルムッドからの口利きもあった。デルムッドは今では有能な臣下としてアレスの下にいるものの、レスターとも変わらぬ交友があるようでこの縁談に大いに役に立ってくれた。そもそも発端がデルムッドだ。
跡取りとうるさい老人どもを黙らせるための適切な相手を見繕ってきた。頼んでからそう月日も経っていない、見事な手腕ではあるが、それとももともと何か考えがあったのだろうか。デルムッドはアレスよりもよく回る頭を持っている、アレスにはデルムッドが何を考えているかはわからなかった。わかるのは、少なくとも自分の幼馴染を嫁がせてもいい王だと認知されていることくらいだ。
ラナにとってはどうか。幼馴染のいる国という点ではさほど悪くないのだろう。そして自国の王である兄の役に立つ。解放軍でも献身的な働きを見せていたし、自分のことよりも他人を尊重する性格ということでさほど文句はないということなのだろう。
ラナはすでに嫁ぎ遅れの年齢である。もっとも適齢期は子供狩りの横行や戦争による若年層の死亡により急速に下がっている。年端もいかぬ子供たちが市井では結婚しているという。それを加味しても、ラナは長く独り身を貫いていた。
ラナは外見こそ優れたというほどのものはないが、それでも平均以上の、見られる外見をしている。絶世の美女ではないが素朴で安心できる外見と言おうか。
性格は文句のつけようがない。少し意思が固すぎ、時々口が悪くなる嫌いがあるようだがそこはアレスに実害がなかったため噂でしか知らない。滅私奉公の精神といい、実務で培った癒しの腕といい、文句を言う男は少ないだろう。
そして出自である。公爵家と王家の血を継ぐ純粋な貴族の血筋、そして戦争にもまれながらも貫かれた良い育ち。自立した精神と美しい所作から垣間見る貴族のものだ。
アレスが今の立場でなかったとしても、これ以上にない婚姻相手である。実際にデルムッドの事前情報ではこれまでに婚姻の申し出は何件も来ていたという。それなのに、なぜここまで独身を貫いてきたのか。
デルムッドは理由は分からないという。アレスも明確な理由は分からないが、思い当たる節がないわけではない。
解放軍の時にリーンはよく仲間と話した内容をアレスに報告していたのだが、仲でも多かったのは恋愛事情だった。いわゆるコイバナというやつなのだろう、女子供が好きな奴だとアレスは半ば聞き流していることが多かったが、思い出せばその中にラナの話も出てきていた。相手はどこぞの聖戦士の血を継いだ男だそうで、だがその男はほかの女と付き合っていると言っていた。ラナは献身的に男にも女にも尽くし、その心中を思うと胸が痛くなるわ、とリーンの言葉。
相手の男も女も誰だか覚えていないものの、そのまま婚姻の知らせを受け取った気がする。まだささやかに交流が残っていた、解放軍が解散したすぐ位の時だったと思うから、もう何年も前だ。その夫婦が散り散りになっていなければ子供の数人がいてもおかしくない。もしかしたらその相手はセリスだったのかもしれない、ラナとセリス、幼馴染だという記憶があった。噂にもなっていたような気はするが、かといって真実など興味もない。
ラナはいまだ、セリスかもしれないその男に今でも恋情でも抱いているのだろう。一途で頑固。ラナの性格が噂の通りなら、一度想った相手をあきらめきれないでいても納得してしまう。
ではなぜ今になって婚姻を受諾したのかはわからない。だがどうでもいいのだろうとは思う。ラナの本心がどこにあろうと、アレスには関係のないことだ。アレスはただ、身元の確かな女が嫁いでくること、国のために働くこと、そして子をなす覚悟があることだけが重要なのである。
政略婚に求めることなどそのくらいであった。
さて決まれば早いもので輿入れの日程も式典の日程もあっという間に数えられるほどになってしまった。予算のやりくりや部屋の都合、家具や人員やと都合するものが多かった。何度放りだしてしまいたくなったかわからない。王が派手なのは外見だけで、やっている業務はまこと地味なものだ。右のものを左にするだけでも膨大な量の書類と決議がいる。鶴の一声ではないのかと、これではお飾りと変わらないと何度も文句を言ったものだが、暴君は嫌いだとデルムッドは子どものように笑う。
それでも文句を言ってから少しは書類の量が減った。サインの多さにアレスは少し字が上達したと思っている。傭兵時代には書くことがなかったため乱れた己の名前も、今では流暢で美しい自体になったと自負している。
書簡をやり取りするにつれ、ラナという名前もなれた。
ラナからもまめに手紙が来るようになった。いかにもラナらしい少し右下がりの素朴で整った字だ。書かれていることは特に中身のないことで、季節のあいさつに続き嫁いだ後の事務的な内容とラナ自身の近況、アグストリアに行くのが楽しみだと作法に沿った手紙である。
事務的な内容にしても、壁紙の色やカーペットの色などどうでもいいことを聞いては、アレスの好みに任せるといった返答がほとんどである。手紙のやりとりに意味はない、ただ婚約者であるという事実をより強固にするためのしきたりのようなものだと思っている。
昔リーンが頬を染めながら話したような色恋の要素はなければ予兆もない。
もともと婚姻にもラナにも興味がなかったから仕方がないのだ。ラナはアレスでなく他に好いた男がいるのだ、こちらもまた、仕方がない。むしろ変に自分に興味を持った女が来るよりも何倍も心地がいい。お互いがそれでいいというから、落ち着くところに落ち着くものだ。
そうこうしているうちにいつの間にか輿入れの日が来る。ラナは隣国の昔ながらの風習だという、騾馬の背に重たい婚姻衣装を着たまま揺られ、やってきた。風習通りにアレスはラナの美しさをたたえ、騾馬に乗せたのは誰かと問う。風習通りにラナが誰でもなく自らこの国に嫁ぐためにやってきたのだと答え、アレスがそれならばと口上を述べて騾馬からアレスの馬上へ横座りにラナを移す。
そんな茶番を行った。
ほとんどラナはうつむき、アレスはラナの頭頂を眺めた。
幾重にも重なった薄い色の紗に隠されて、確か橙かかった明るめの金髪もうすぼんやりと冴えない色に見える。指の先までを覆うレースもその指にアレスが
後日はめる婚姻指輪も特に興味は持てない。ただアレスの前に座らせたときに、紗の下から見えたラナの髪の毛が記憶以上に鮮やかな金髪で、覚えていた次の言葉がどこかへ飛んでしまったくらいだった。仕方なしに手綱を引くと馬がいななき、アレスの胸にうずもれたラナがアレスの言うべき言葉をささやきで教えた。
「今よりそなたは私の妻だ、異論はあるまいな」