とめる横から洗濯物がパタパタと音を立ててはためく。風は少し強いが、待ちに待った晴天である。ラナがここぞとばかりにたまっていた布類を洗濯したのは言うまでもない。
小さな包帯や布切れは大した問題ではない。曇天や多少の雨だろうとなんだかんだで乾いてくれる。問題は大物だ。敷布をはじめ大きなものは、室内では場所を取るしなかなか乾かない。結局そのままカビが生えてしまい、包帯に活用することもできずに捨ててしまったのは苦い経験だ。
ようやくの晴れ間を狙って行う洗濯は、重労働だけれども達成感があって好きだった。
滅多にない、不安や悩みを抱かなくていい単純作業だ。体を動かせばいいだけ、それだけで結果が付いてきてくれる。
前線で命をかける戦士たちの傷をいやすのは、案外体力的にも精神的にも疲れが伴う。判断し、適切に処置をしないといけない。前線とは別の綱渡りを後方も行っている。
しかし今日はそんなことを何一つ考えなくていい。眼前に広がる、はためく白い布の行軍は荘厳だ。もやもやした気持ちも、消化不良の感情も、一緒に洗い流されたようなさっぱりした気持ちになれる。
少しだけ、本当に少しだけ風の強さが心配だけれど。
それでも見上げる空にはちぎれた小さな雲が颯爽と走り去るだけだし、天気をよむのが上手なフィーも、今日だけでなく明日だって晴れると断言してくれた。
持つべきものは智慧のある友人だ。なんてすばらしい観察眼だろうとフィーの天気予測に毎度舌を巻く。どうやって、と聞いても、なんとなくよとしか答えてくれない。隠しているわけではなく、本当になんとなくらしい。
なんとなく。なんとなくといいながら、なんてすばらしいスキルだそう。
ラナのなんとなくスキルなんて、今日はラクチェが暴れそう、なんていう当たってほしくない予測しかできないスキルだ。でもこれも割とあたる。
もっとも、ティルナノグの幼馴染たちは得意な予測なんだけれど。
そのラクチェも最近はだいぶ落ち着いてきた。ヨハンとうまくいっているからだろうかとラナは次の敷布を手早く干しながら考える。
当初、まさかうまくいくとは思ってもいなかった二人なのに、今はラクチェにとって欠かせない存在になっている。本人は認めないだろうけれど。
なんだかんだヨハンの甘い言葉にほだされてしまったのだろう。それだけヨハンがなかなかの策士だということかもしれない。幼馴染の意外な一面をのぞかせたヨハンを、本当にすごいとラナは思うのだ。
そしてそんな関係の二人が少しうらやましい。
猪突猛進で戦闘にのめり込むラクチェが手綱を握っていると見せかけて、案外ヨハンがラクチェをコントロールしたりする。しかも、ラクチェにそうと思わせないで。
頭の回転が速いのか、人を思うように動かせるのか。
良からぬ方向へ転べばきっと怖い相手だったのだろうなと思えるのは、良い方向へ転んでくれたからだ。だから、なんて事のない一つの可能性として考えて終わり、で済ませられる。
もっと怖いものが現実には控えていて、それは思うだけではすまなくて。
それはラナが考えることではないかもしれないけれど、それでも、セリス率いる解放軍をはじめから支える一員としては、考えずにはいられないのだった。
どうやって今後を攻略するのか、とか。おそろしいイシュタルをどうやっていなせばいいのか、とか。
倒す、と考えられないのはラナがあまり戦闘が得意ではないからだろうか。ラクチェだったら、きっといの一番に撃退方法を考えているだろうから。
怖い相手。そうとしか考えられない。
セティやティニーといったイシュタル本人を知る人は、もっと複雑な意見があるようだが、ラナは戦場で見る雷神イシュタルしか知らない。
(恋をすればイシュタルも変わるのだろうか、ラクチェのように)
馬鹿らしい考えがふと浮かんで、くすりと笑ってしまった。
この戦争が愛だ恋だでどうこうなるわけないのだけれど。
そんなことがあったら、どんなに平和でいいだろう。ヨハンではないけれど、愛のために、みたいな。愛のために敵味方関係なく手を取り合うようになれば平和だ。
愛のために争うこともあるんだろうけれど。
馬鹿みたいだ。あり得ないことを考えたって何にもならない。雷神イシュタルだって、戦地を離れればもしかしたら単なる少女なのかもしれない。でもそんなの、ラナのあずかり知るところではない。
知らないからこそ恐れるし、知らないからこそ勝手なことが言えるのだ。そして知れば知ったで、深みにはまることだってあって。
ラナは暴走する思考を捨て去ろうと、頭を振ってシーツを干す。
あれもこれも今はどうでもいいことだ。ここは戦場と隣り合わせだけど一応安全地帯であるし、今戦う相手は雷神ではなくて天気と、特に風で。
ゆらめく洗濯物の海を振り返れば、遥かなシーツの波の向こうから誰かがゆっくりと歩いてくるのが分かった。
ひゅ、とラナは短く浅く息を吸った。
足だけ見える。履き古したいつものブーツである。
ゆっくりとした足取りは何だか少し似つかわしくない。もっとぶっきらぼうに、意味もなく感情的で、それでいて慎重な足取りだった気がするのだけれど。
何か用があるのだろうかと、ラナはあえて声をかけず、身動きもせずにじっと待ってみた。次の洗濯物をぎゅうと握り締めたまま、馬鹿みたいに突っ立っている。
思うよりも長い時間がかかって、シーツに透けて浅黒い手が見えて。ひょっこりと、予想していた通りの顔がラナを見下ろした。
「ああ、やっぱりここにいたか、ラナ」
「いたわ、どうかしたの」
ヨハルヴァがこんなところに来るなんて珍しいわね、と相変わらず力が抜けない掌で湿った布を握りしめて、ぎこちなく口角を上げた。
途端風がラナの脇を通り抜けて、握っていた布を巻き上げていく。きゃ、と高い悲鳴を上げながら、翻弄されている自分が馬鹿みたいで悔しくなる。なんて意地悪なんだろう、こんなところで天気はラナの邪魔をする。
ヨハルヴァは大きく一歩ラナの方に足を踏み出して、大きな右手で舞う敷布の一端を押さえてくれた。
「強ぇな」
「ええ、でも……ようやく晴れたから、この隙に済ませておきたかったの」
「邪魔したか」
「いいえ、そんなことないわ。それに、何か用があったんでしょう」
どうしたの、とふたたび問えば、いや、と妙に歯切れの悪い答えである。への字の口を緩ませて、耳を何度も引っ張っている。
そのまま視線も合わず、ヨハルヴァの口も開きそうもないのでラナは再度首を傾げた。
「どうかしたの?」
「……いや、なんでもねぇよ。手伝いに来た」
証拠とばかりに、ラナに繋がる洗濯物を握った右手を引き上げて、いたいけな笑みを見せる。つられてラナの手も少し持ちあがるけれど、ヨハルヴァの眩しい笑みに目がくらみ、微笑むことも忘れてしまう。
「ほら、貸せよ。ラナひとりより俺がいたほうが早いだろ」
「それは、そう、だけれど」
とはいえ、何だか納得いかないし、素直にお願いしてしまうのも気が引ける。ラナの仕事を押し付けるようで申し訳ないし、もともと忙しいはずの人なのだ。いくら戦闘がないとはいえ、こんなところで洗濯物など干していていいのだろうか。
そんな疑問がまざまざと顔に浮かんでしまったのか、ヨハルヴァは再度右手に力を籠める。
「ほら」
「あっ……ありがとう」
それでも手助けはありがたいし、なにより一緒に過ごせる時間が増えると思うだけで正直胸が熱くなる。それがこんな地味な作業だとしても。
背伸びしなければ届かないラナには少し高めの紐も、ヨハルヴァには楽々な高さのようで、手際の良さもい相まってあっという間に全てが風に泳いだ。
腰に手を当てて満足げに成果を眺めるヨハルヴァの顔をラナは黙って見上げる。
実年齢以上に少しだけ子供らしさの見える表情である。口元が楽しそうにほころんでいるからか、目元が緩んでいるからだろうか。それとも陽の当たり方か。ヨハルヴァにばれないようにさりげなく視線を向けるなかで、再び胸中は疑問であふれてきた。
これからどうするのだろう。というよりも、本当に何をしに来たのか。用事があるならば洗濯物を干している場合ではないし、用事があったわけでないなら、何なのだろう。
深く考えてしまうのはラナの悪い癖だと、ラクチェによく言われる。もっと単純に考えればいいのだと。
だけれどそんなことはラナにはできないでいた。
そして、この時間を終わらせることもラナにはできない。終わらせたくないなんて思ってしまう。
ずっと続けばいい。
「こうやって見ると圧巻だな」
「そうね、壮観よね」
「こんな枚数一人でやるのは、いい運動になるだろうな」
ラナは少し笑った。確かにそうだ。解放軍は今や大所帯で、敷布をはじめ大物の洗濯物は洗うのも干すのも一仕事。後方支援の目立たない地味な仕事の中で、一番きついと言ってもいい。
「そうよ、おかげでヘトヘト。ヨハルヴァが来てくれて助かったわ」
くだらない軽口がようやく飛び出てきた。内心安堵しながら、ラナは無邪気に笑うヨハルヴァの笑顔に見とれてしまう。はためくシーツを追う輝く視線、強い風に舞う眺めの前髪。ちらりとみえる前歯、なんてことはないその唇の形だって、一秒でも長く焼きつけたくて、目を細めた。
「――そういえば昔ね、日記を書いていたの。幼馴染のみんなで」
ヨハルヴァはいきなりの話題転換に、軽く首をかしげてラナを窺った。流石に唐突過ぎたかと不安がよぎり、ラナは大げさに2度3度瞬きを繰り返した。
「幼馴染ってぇと、たしか……」
ああ、とラナは頷いた。ヨハルヴァの引っ掛かりはそこだったのか。セリス様とラクチェと、と名前を挙げながら指折り数えた。
「オイフェ様に字を教えてもらって、その勉強だからって、毎日。グランベルのと、イザークのと、二冊もらって、交互に書いたわ」
色の違う二冊の冊子を渡されたものだった。書いた日記は、グランベル文字はオイフェが、イザーク文字はシャナンが採点し、ときに一言添えられて戻ってくるのがとてもうれしかった。勉強の一環なのだから流行りというにはふさわしくないのだろうが、皆夢中になって書き続けていた。
十年ほど前だろうか、いつの間にその習慣がなくなったのかは覚えていないけれど、そういえばデルムッドが一番長く続き、ラクチェがその次に続けていた気がする。デルムッドはもしかしたら今も続けているのかもしれない、彼はそういう人だから。
「ティルナノグを出る前に読み返したのを思い出したの。子供の字だから拙くてね、書いてあることも。こんなことを考えていたのか、感じていたのか、なんて。自分のことなのに不思議な気持ちだったわ」
ふうん、とヨハルヴァの相槌はそっけないけれど、声音は暖かだった。
「日記か。俺も小さい頃は書いてた気もするな」
もしかしたらグランベル貴族にある風習なのかもしれないと話を聞きながら頭によぎる。幼いヨハルヴァも、書き取りを兼ねて日記を綴ったのだろうか。
「いつも年が明ける時に新しい日記帳を貰っててな、何日かは書くんだがすぐに飽きちまってた」
いたずらな笑顔で鼻を掻くヨハルヴァの字が、豪胆な性格からかけ離れて整って美しいことをラナは知っている。
「好きではなかったの?」
「飽き性だったんだろうな、読み書きとかそういう机に向かうのよりも、斧握ってる方が好きだったからよ。あんとき何書いてたのかも覚えてねぇや」
「ふふ、ヨハルヴァらしい」
「ラナはどんなこと書いてたんだ」
「……花が咲いたとか、ラクチェと喧嘩をしたとか、確かそういう事よ。あんまり、細かくは覚えていないわ。なんだか不思議な気持ちだったのよね、……覚えていない事ばかりが書いてあったの。確かにあったろうけど、その時大切に思ったことだから日記にかいたんでしょうけど、忘れてしまうんだなぁって」
覚えているのは読んだ感想だ。
忘れてしまう。大切だと思ったことも、日記に書いておきたかったことも。嬉しさも悲しさも、苛立ちも何もかも。
それは不思議な感情だった、そのことは、まだ、忘れていない。
そういうもんなのかもな、とヨハルヴァは優しく頷いた。
あたたかなひとだ。ぶっきらぼうに見えて、粗雑なようでいて、実際にそういうところも多いのだけれど、包み込むような大きさがある。
ラナに向けられた弧を描く唇をぼんやりと見つめた後に、シーツの海に視線をやった。
はためく白い波。風に乗って届くヨハルヴァの香り。そういうものも、さっき焼き付けようと見つめたヨハルヴァの表情も、きっと忘れてしまうのだろう。
たとえいま日記にしたためたとて。
この瞬間、感じたことも、溢れる思いも、きっと忘れてしまって、ないも同然の物になってしまって。
「ヨハルヴァ、わたし」
視線は眼前に向けたまま、ラナは胸の前で両手を重ねた。祈りだろうか、思わず重ねた両手が不思議としっくりくる。
忘れてしまうのならば、伝えてしまいたいと願うこの気持ちも、思いも。叶って欲しいと言う祈りではなく。今この瞬間をとどめておきたいという、祈り。
いきなり溢れた気持ちに、整理もできないままラナは衝動で動いていた。祈りをのせて言葉を紡ぐ。
どうかこの瞬間を、忘れたくないと。
「あなたのことが好きだわ」
2021/03/22