そのままトラキア半島を抜け、ペルルークで連れ去られたユリアは過去を思い出す。
母のこと。兄のこと。兄だった存在が兄ではない何者かになったこと。
その時に兄が渡された黒い魔道書。聖書、と大司教は言っていたけれど、醸し出る禍々しさはとても聖書などという美しいものだとは思えなかった。
あの魔道書を渡されて、兄は変わってしまった。母をあんな風にいたぶるなどと、ユリアは信じられなかった。あれが兄なのだとしたら、きっとその要因はあの魔道書にある。
ユリアにとって、それが、皇女として過ごした最後の記憶だった。
この記憶を封じたくて過去を忘れていたのか、または逃がそうとした母が記憶を封じたものかはわからない。
だが、思い出した瞬間に理解できた。
ユリアがなぜリザイアの書を受け取って、あんなにも他者を傷つけることを恐れたのか。あの時に感じた、自分が自分でなくなってしまうのではないかという恐れ。それが何に起因していたのかということを。
それはシアルフィで父と話し、確信に変わった。
再度マンフロイにより囚われの身になったユリアは、ヴェルトマーの牢で母の形見というサークレットを握りしめる。別れ際、最後の抱擁にまぎれて父に渡されたものだ。
線の細いサークレットは、確かに母が付けていたような記憶がある。美しい母。どこか愁いを帯びた顔の、しかし芯の強い女性だったような気がする。
こっそりと額につけてみると、ちょうど中央に小さな宝玉が位置している。とりまく円環を指でなぞると、どことなく光の刻印に似ているような気がした。
父は、兄が暗黒神ロプトウスの生まれ変わりだといった。
それがどういう意味なのか、ユリアは考えあぐねていた。
というか、考えたくないのだ。比喩ならいい。ロプトウスのように邪悪な心を持った存在なのだということなら、まだいい。いや、優しかった兄がそんな側面を持っていたとはとても信じられないのだが、まだそれは、少しだけユリアの救いだ。
しかし、どうしても父の言葉はそうでない事実を指し示そうとしていた。
実際に、ロプトウスの血を引いているのだと。滅びたはずの血、忌まわしい血を。引いているのだと。
だとしたら、どうだ。ユリアと兄は双子の兄妹だ。兄だけが血を引き、妹は一切引き継がないなどということがあろうか。血の濃い、薄いといった程度の差はあろうが、流れるのは同じ血のはずだ。
確信はない。しかし、ユリアのなかにも闇の血が流れているのだと。
父も、母もまた。
それを知るからこそ、父は、生まれ変わりだと断言したのではないかと。
それを考えるだけで恐ろしくなる。
自分のなかにも、闇の血が流れているのだとすれば。そうだ、人を殺し、傷つければいつ何時闇の血が花咲くかわからないではないか。いつ蝕まれるかなど、直系でないにせよ、その片鱗が現れるかは誰にも予想できるはずがない。
ユリアがこれまで人を殺したくないと恐れていた、理由がさらに裏づけられてしまう。なんて恐ろしいことなのだろう。
いつだったか、城の人気のない廊下でリザイアの書の刻印をそうしたように。ユリアはサークレットの文様を指でなぞる。
気が緩めば、泣き出してしまいそうだ。絶望がユリアの死元から這い上がってくるのが見える。だがここで泣き出すわけにはいかない。
兄が兄でなくなってしまったのなら、止めるのは自分でなくてはいけない。たとえその力がユリアにないとしても、ユリアは最後まで兄のために尽くさなくてはいけないのだ。
母が今わの際にユリアを逃してくれたのは、そのためでないかもしれないけれど。
今ここに命があるのは、きっと変わってしまった兄を救うためなのだ。必ずや、とユリアは強く心に誓った。
だから、今、弱くなってなるものかと。涙が出ぬように、強く瞼を閉じた。牢に近づく足音になど負けてなるものか。
その足音は覚えがある。闇の気配が近づくたび、肌がじりじりと焼かれるような痛みを感じる。
負けてはいけない。闇に呑まれてはいけない。ユリアは救いを求めるように、両手でサークレットに触れた。
ユリアが再び正気を取り戻したのはセリスの腕のなかだった。焦点の会わない視界のなかでも、セリスの美しい青い髪は分かる。手を伸ばして触れれば、たしかに本当のセリスだった。
「セリス様、私……」
「もう何も言わなくていい、レヴィンからすべてを聞いた。ごめん、僕がもっとしっかりしていれば……」
セリスの言葉に滲むのは後悔だろうか。周囲にはばかるようにひそめた言葉は、セリスとユリアの出自に関する事柄を聞いた証左に他ならない。
セリスの美しく整った顔が歪んでいる。今見れば母の顔に重なるところがある顔が。セリスを見かけるたびに浮かんだ心揺らぐ感情は、母の血だったのだと理解した。
辛そうな姿に、胸が痛む。
「いいえ。これでよかったの」
ユリアも周囲には聞こえぬよう、セリスの耳の傍でそっと囁いた。いつもは他人行儀にへりくだっていた言葉を、兄に向けたように親しさを込めて紡ぎながら。
「私、自分がこれまで生きてきた理由を、初めて知ったの。私は戦う」
びっくりしたようにセリスは体を離した。丸く見開かれた瞳は青く、セリスの父親の色なのだろう。誠実さと凛々しさが造りだ裾の色が、少し揺らいで、きゅうとユリアを見つめている。
信じてほしくて、ユリアはそっと口の端を引き上げた。
「逃げたりしないわ」
「そうか……。ユリアは強いな。でも、君の言うとおりだ」
ユリアは礼を言ってセリスの腕の中から起き上がった。立ち上がり、汚れたスカートの裾を軽くたたく。
「悲しい運命だけれど、逃げるわけにはいかない。僕達、最後まであきらめてはだめなんだ」
頭一つ近く高いセリスの瞳をみあげて頷いた。
セリスの後ろにそびえたつのはヴェルトマーの城だ。荘厳で美しく、戦の傷跡が生々しい。敗戦の証にヴェルトマー家の旗が下げられ、代わりに解放軍の印がはためいている。
「行きましょう」
そこで何かがユリアを呼んでいると、わかっていた。あとは流れるがまま、流されるがままに物事は進んだ。
ナーガは祈りの書だ。祈りの魔道書で、ユリアの祈りは兄の救済だった。ユリアが望むのはただそれだけだった。
幼いときに、あの黒い魔道書を渡されてロプトウスに乗っ取られてしまったかわいそうなユリウス。彼を救ってあげたかった。それだけがユリアにできることだと信じていた。
ユリウスの姿をしたロプトウスを目の前にしても、その思いは変わらなかった。まがまがしい声が、ユリアをナーガの名で呼んだとしても何も変わるものはなかった。
ただ、この哀れな人を、救ってあげたかった。辛かっただろう、助けてほしかっただろう。ようやくそれをかなえてあげられる。
遅くなってしまった。ユリアの片割れ。傍にいてあげられなくてごめんなさいと、謝罪を込めて。ユリアはナーガの魔道書を片手に、祈りをささげた。
そうして戦いは終わりを迎えた。ナーガの前に、ロプトウスはひとたまりもなく消え失せた。残されたのは兄だったものの骸だ。兄は生きていなかったのに、残されたのが兄の体とは何て悲しいことなのだろう。
ユリアは血の気のない頬に触れてみた。王城で不自由のない生活していた割に、少し肌は荒れている。肉もさほどついておらず、皮の下の骨に触れられそうだ。
ユリアの知るユリウスは、まだ幼かった。何年前、といったろうか。七年前だ。七年。今まで生きてきた半分近くを離れてしまった双子の兄。
それでも面影はすぐに幼い兄に結び付く。そうだ、心はロプトウスだとしても、肉体はユリウスのものなのだから。
ユリアと同じ色の肌。白く、手首などは血管がうっすらと透けて見える。まだ温もりが宿っているように思えるけれど、その熱がユリアの残渣だということは分かっていた。
父と同じ色の髪。幼いころはこの髪がうらやましかった。母と同じ自分の髪を誇りもしたけれど、強く威厳のある父はユリアもあこがれだった。
父と同じ色の瞳。もう光を映さない。瞼を閉じて、長いまつげに触れる。眠ってるような横顔は、穏やかだった。
薄い唇。誰に似たのだろう。父の唇も母の唇も、もう思い出せない。
「ユリア」
開け放たれた扉の向こうから名を呼ばれて、ハッと現実に引き戻された。
ロプトウスは倒したけれど、まだ剣劇の音が聞こえる。戦はもう終わるのだろうが、混乱は続いているらしい。首魁の戦士を知れば、帝国兵の勢いも止まる。続く戦闘の音も次第に収まるはずだ。
名を呼ばれるのはずいぶん久しぶりなような気がする。姿を見るのも。
ユリアは長い間捕えられていたし、解放軍に戻った後はひたすらに自分のやるべきことだけを信じて進んでいたから。
腰に刷いた剣は父を思い出すのだといった魔法剣だ。ユリアを見つめる瞳は燃え盛る炎の色だ。
ユリアの父とは異母兄弟と言っていたが、デルムッドに闇の血は入っているのだろうかと、へたり込んだまま傷ついた騎士を見上げている。
「凄いじゃないか、ユリア。よく頑張ったね、本当に」
その言葉を選んだのは、デルムッドがユリアの状況を詳細にセリスから聞いていたからなのだろう。状況を的確に判断し、余計なことを聞かない。
いつでもそうだった。デルムッドは、セリスと近かったから。たくさんのことをセリスから聞いていた。ユリアがリザイアを渡された時も。
デルムッドはいつから知っていたのだろう。ユリアの血のこと。デルムッドとユリアに流れる血のこと。
デルムッドは知っているのだろうか、セリスとユリアに流れる血のこと。帝国の首魁たるユリアの双子の兄の血のこと。
デルムッドには同じ血が流れていないといい。闇の血が混ざっていなければいい。デルムッドの精悍で鍛え上げられた肉体を巡る血脈は、赤々と燃えたぎる炎の聖戦士のものであればいい。ああ、もちろん魔剣を操るヘズルの血も。
差し出されたデルムッドの手袋に頼って立ち上がる。少しよろめいて、デルムッドの胸当てにユリアの頬が触れた。デルムッドが腰に手を回して支えてくれる。
冷たさは現実だ。渦巻いていた思考を遠くに追いやって、頬から現実が襲ってくる。
結局一人で立つことはできないのか。支えてくれるデルムッドは、こんなにも冷たく硬い鎧を身に纏って戦場に立っている。命のやりとりをする騎士ゆえなのだろう。命のやりとりが日常。
ユリアが命を守ることに集中した日々。人を傷つけたくない、殺したくないと無様に足掻いた日々。デルムッドは何度も数えきれないほど命のやりとりをして、人を殺してきたのだ。
ユリアが初めて人を傷つけた日、泣いた夜、ユリアが傷つてた敵兵の命を奪ったのもデルムッドだった。
そうして醜くもがいて足掻いたユリアが、とうとう人を殺した。兄を。帝国の首魁を。暗黒神の生まれ変わりを。
「よく、頑張った」
その言葉をデルムッドはどんな思いで口にしたのだろうか。
デルムッドが否が応でも行わざるをえなかったを、ユリアがようやくやったと、ほめるような気持なのだろうか。
嫌がっていたことを、よくぞ解放軍のために行ってくれたと、謝罪にも似た気持ちなのだろうか。
「ええ」
頷くと、大きな掌がユリアの頭を撫でた。その重みにユリアは視線を下げる。
地に広がる赤い髪。
これで兄は救われたのだろうか。ユリアの生きる意味。ユリアが闘う目的。心に誓った信念の星。叶ったはずなのに、達成感も満足も生まれない。
力なく、ユリアは冷たい胸当てにふたたび頬を寄せた。
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