気が付いたときにはすでに日が暮れていた。見慣れた部屋の天井の梁を呆然と見上げる。横たえられた寝台はユリアのもので、上掛もユリアのものだ。なじみのある肌触りに、繕い跡。
体を起こしてみても、いつもの、ラナとラクチェと共用で使っているいつもの部屋だった。何ら変わりない。
それではあの一時は夢だったのだろうか。単なる悪い夢、ユリアの妄執が招いた悪夢。
そっと右足に触れてみる。足先、甲、くるぶし。足首を通ってふくらはぎを撫でようとして、手が止まった。
痛みはない。なにもない。
上掛を勢いよく剥ぐと、薄暗がりの中で浮かび上がるようなむき出しの白い脚に、ひきつれがあった。これまでそんなものはなかったのに。色の濃い、不格好な傷跡。少しだけ堅い、明らかに違う手触りで。
夢ではなかったのだ。
では、やはり。
ユリアはリザイアを使ったのだ。見知らぬ敵兵に。傷を負わせた。そして自分だけ回復した。体中に熱が駆け巡るのがわかったが、手が冷たい。指先が震えていないのが不思議なくらいだ。目を閉じると鏃の煌めきが思い出されるような気がする。
あの後の記憶がない、倒れてしまったのだろうか。気を失っていたのか。
抱えた膝に額をつけ、ゆっくり息を吐いた。
何も考えないようにしても、思考はとてもうるさい。耳を塞ぐように、目を閉じるように、思考を閉ざせればいいのにと思ってしまう。今だけは何も考えたくない。
部屋の扉を叩く音で、少しだけ救われた。
「はい」
返事をすると、ラナが顔をのぞかせた。部屋は薄暗がりだが、早くも廊下に火がたかれているらしく、少し逆光のラナは、明るい橙の髪の毛をさらに赤々しく輝かせてほっとした表情で微笑んだ。
「よかった、ユリア。目が覚めたのね」
「ええ」
「びっくりしたわ。デルムッドが見つけてくれたの、倒れていたって。覚えている?」
力なく首を振った。
「すこしだけ。デルムッドさんにまたご迷惑をかけてしまったんですね」
「迷惑じゃないわよ、気にしないで」
ラナはそのあと細々としたことを教えてくれた。戦いには勝利したこと。数日間はここにとどまり、支度が整ったら進軍すること。今夜は戦勝の宴が催されていること。
言われてみれば、賑やかな空気がないでもない。もう少し耳を澄ませば、きっとお酒にはしゃぐ兵士たちの声が聞こえるのかもしれない。
会話をするのは、思考をそらすいい機会だった。もっとラナと話をしていたいとは思うけれど、ラナはもう宴に戻らなくてはいけないという。
「参加する?」
つかれているから、と断ってしまった。
きっと参加したほうがいいのだろう、だが疲れているのは本当だ。そんな体力もなければ、なによりも元気がなかった。ラナと話すのはいいが、微笑むのはこれ以上できそうにない。
「もう少し寝ていてもいいかしら」
「もちろんよ。セリス様とデルムッドには、目が覚めたことだけ伝えておくわね。二人とも気にしていたみたいだから」
「ありがとう、ラナ」
「いいえ、ゆっくり休んで。お水は枕元に置いてあるけれど、もしもおなかがすいたら……」
「大丈夫、ありがとう」
ラナが部屋を出てしばらくしてデルムッドが部屋の扉をたたいた。返事をすると、戸を開けたまま入り込んできた。
片手には酒の盃、もう片手には軽食の積まれた皿を持っていた。肉をパンで挟んだのだろうか、漂う匂いに少しだけ気分が悪くなる。
「大丈夫?」
「何がですか」
わざと冷たい言い方をしたにもかかわらず、デルムッドは声を出して笑った。
「ユリアがいろいろ話したいんじゃないかと思って」
少しだけ笑い方が思いつめているように見えるのは、ユリアの心がそう見たがっているからだろうか。
「話したい、気持ちはありますけど、頭が混乱していて何を話せばいいのかわかりません」
素直に吐露した。膝を抱え直す。デルムッドは椅子を一つユリアの寝台の傍に持ってきて、皿を水差しの横に置く。疑念の視線に肩を竦めるデルムッドは、いらないのは分かっているんだけどね、という。
「食べ物はいらないって聞いたけど、念のため。というか口実かな。そうでもしないと、女性一人の部屋に入り込むなんてなかなか俺でも遠慮するだろう、ふつう」
そうかもしれない、と思うけれど、開け放ったままの扉は気になってしまう。マナーだとは思っているけれど、話すことをデルムッド以外に聞かれるのは嫌だった。
話し終わった後に自分の口やデルムッドから誰かに伝わるのは、気にしないというのに。
水を飲むか、とのデルムッドの問いに一度頷く。差し出された杯で口を潤すと、勝手に口が動いていた。
「私を撃った兵は、まだいましたか」
「……弓兵か。そうか、ユリアは撃たれたのか。いたよ」
デルムッドも杯に口をつける。
「生きて、いましたか」
一番気になっていたことだった。答えの肯否で何かが変わるとは思えないけれど、一番知りたいことだ。
ユリアを見つけたというデルムッドならば知っているのでは。運命のようだ、人を攻撃したくないと告白した相手が、人を攻撃した時にユリアを見つける。そしてユリアの攻撃した相手を把握している。
なぜデルムッドが、ユリアの問いにすぐに答えられたのかはわからない。あの敵兵の傷を見て分かったのか、まさかユリアが襲われるところを見ていたのか、または助けに向かってくれていたとか。
たまたま見かけたのかもしれない、だれかを狙う敵兵を見つけて、倒そうとしたところで相手が狙っているのがユリアと気が付いたとか。
それでは、さっきのデルムッドの返答がおかしなことになるけれど。
しかし今のユリアは、そんなことはどうでもよかった。ユリアを見殺しにしていたとしても、救助の時に状況で判断したとしても、同じことだ。すべて過ぎたことなのだから。
「あの弓兵は」
デルムッドは静かに長い息を吐いた。溜息にも似たその息が、なんだかユリアを批判しているように思えて一度身をすくめてしまう。手中の杯をきつく握りしめ、じっと視線を向けた。
デルムッドの顔を見られない。あの時と同じだ。ユリアが、リザイアの書をもらった夜と。
デルムッドは息を吐ききると、大きな掌でユリアの両手を杯ごと包み込んだ。
「……生きてはいたけど、死んだ。俺が殺した」
静かな声だった。
「一目見て光の魔道書の傷だってわかったよ。下ではユリアも倒れていたし。あの時は状況がのみ込めなかったけれど、今、分かった」
ゆっくりとデルムッドの顔をうかがうと、薄暗がりの中で赤い瞳が慈愛に満ちている。眉が少し困ったように下がって、言葉を選びながら、ゆっくりとユリアを労わってくれていた。
「大変だったね、辛かったろう、一人で。痛かっただろう。よく頑張ったよ」
はい、と答えようとした声は喉の奥でつかえ、嗚咽となってしまった。デルムッドさん、と名前を呼びたいのに、出てくるのは涙だけだ。
「ごめんな、すぐに助けに行けなくて。一人で切り抜けたんだ。凄いことだよ、ユリア。よく頑張った」
はい、とまた嗚咽交じりの返事を振り絞る。
ユリアの涙が止まるまで、デルムッドの大きな手はユリアの手に触れてくれていた。
デルムッドは初め、弓兵にしか気が付かなかったのだという。聞こえたうめき声の方へ馬を勧めたところ、敵兵が傷ついていた。ケガをし、且つ弓兵だというのに、近接していたデルムッドを襲おうとしたので斬り捨てるしかなかった。そして眼下にユリアが倒れているのを見つけた、ということらしい。
「私、わけがわからなかったんです。でも、死にたくなかったその一心でした」
「うん、ユリアは間違っていないよ。本当によく頑張ったと思う」
デルムッドは一度手を放したが、触れていてくれる方が安心する。手を握っていてくれますか、と頼むと、デルムッドは一度驚いた顔してから快く承諾してくれた。
「……やっぱりまだ人を傷つけるのは怖いです。あまりいい気分もしません」
「それが正常だよ。大丈夫。人を殺して喜ぶような奴に、ユリアがならなくてよかったと俺は思っている」
「……はい」
それは確かだ。殺していないと知って、どれだけほっとしたことだろう。ユリアは人を殺さなかった。人を傷つけて、まだその罪悪感に苛まれている。
いい気分ではない。できることならば今日一日をやり直したい。そうして傷つけない選択をしたい。
しかしそう思うことがユリアは少しだけ誇らしかった。
人を傷つけても、自分は変わらなかった。リザイアの書をもらった時に感じたあの後ろ暗さ、足元から崩壊してしまうような感覚、それらはやはり杞憂だったのだ。
ユリアの過去も、何も、関係なく。
「人を殺すことにも、傷つけることにもためらいはありますが、それでも、私、戦えると思います」
唐突なユリアの発言に、重なったデルムッドの手に力がこもる。数拍間を開けて、丸くなった赤い目がユリアを凝視する。
「もしかして、戦えないとしたら、俺らがユリアを追い出すと思っている?」
ユリアは何度か瞬きをした。
「追い出す、というか……。役に立たない人がいても、ただ重荷なだけでしょう。わたし、荷物にはなりたくなかったんです。なるべく、解放軍の力になりたいですし」
「なってるよ、今までも、十分に」
「それでも、ラナさんもそうですけれど、回復役が攻撃手段を持っていなければ、戦場ではいい標的ですよね。だからリザイアをくださったのでしょうし」
「それは……ないとは言わないだろうけど、純粋に、見つけた魔道書を使える人がいるのに渡さないのは無駄だろう。ねえ、ユリア」
真剣な声でデルムッドは両手でユリアの手を握った。温かな感触が少しこそばゆくて、ユリアははいと上ずった声で返事をする。
「リザイアを渡したのは、単に解放軍としての責務だよ。だからって使いたくない魔道書も武器も、ユリアは使わなくていいんだ。ユリアが望むなら、ユリアは俺らをずっと癒してさえいてくれればいいんだ」
「デルムッドさん」
優しい言葉に、胸がいっぱいになった。
はじめから、その不安を言えばよかったのだろうか。人を傷つけるのが怖い、という漠然とした不安ではなく。戦わなくても解放軍にいていいのだと、ユリアの不安はそこなのだと、それですませてしまえばよかったのだろうか。
でも。
「ありがとうございます、デルムッドさん。私、本当に解放軍にいられること、とてもうれしく思っているんです。はじめはレヴィン様に連れられて参加しましたけれど、いまは、私がいたくているんです。力になりたいんです。
積極的に、この力を使うことはないでしょうけれど、私、……でも、やっぱり戦える手段があることは、悪くないことだって思うから」
戦わないことは、もとより考えなかった。戦うことと、戦った後のことが怖かっただ。
「だから、頑張れます。本当に、ありがとうございました、デルムッドさん」
「うん、良かった」
デルムッドは破顔した。温かみのある笑顔だ。優しくて、包み込まれる。
「でも、頑張りすぎなくていいんだからね。無理はしないこと」
ええ、と微笑み返す。
そのあとは宴のことや他愛無いいろいろな話をした。噛み殺しきれない欠伸がデルムッドにばれるまで、ユリアはそのひと時を楽しんだ。
「そうだった、ユリアが疲れているの忘れていた」
「いいえ、お話できてよかったです」
「ラナの話だと、初めて魔道書つかったってのもあるし気力が尽きたんじゃないかっていう話だったけど」
そうかもしれない、とユリアは頷いた。体の疲労というわけでもないし、傷の回復によるものというわけでもないだろう。きっと、使い慣れない光の魔道書を使った反動なのだろう。
「はい、そうですね、すこし」
これから、どれだけユリアが魔道書を使う機会が増えるのかはわからない。だが気力が尽きただけなら、使えば慣れていくだろう。こうやって、一度使っただけで倒れてしまう失態もなくなるだろう。
「一応、食べ物置いておくけど、どうする」
「ありがとうございます、でも、このまま休みたいと思います」
「うん、それがいい。ゆっくりね」
気力ならば寝れば回復するだろう、と部屋を出るデルムッドを見送るのもそこそこに、ユリアは寝台に沈み込む。余計な考えは、もう思い浮かばなかった。
ユリアは結局、リザイアを多用することはなかった。多用はしなかっただけで何度か敵に振るった。そのたびにどっと疲れは出たが、二度と倒れるようなことはしなかった。
三度目くらいから、自分でも慣れたのがわかる。少しだけ、敵を傷つけたときの苛まれるような胸の痛みが薄れてきた。
それでも兵士を殺すことはなかった。人の命を奪わぬようにとだけ考え続けた。
一番の役割は回復することだ。ユリアに求められていることは敵戦力をそぐことではない、負傷兵の回復だ。リザイアは、足手まといにならぬためのもの。
だから必要以上の怪我を負わせなくていいし、命を奪う必要はない。それはユリアの免罪符で、毎回戦闘の前に言い聞かせていた。
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