その夜、珍しくユリアに来客があった。部屋に三人でいるときにノックされ、ユリアいる、とデルムッドの声。
「なになに。あたしたちじゃなくてユリアに用?」
「デルムッドってば、え、そうなの」
一気に沸き立つ幼馴染たちに、デルムッドは違うよ、と肩をすくめた。いつもと変わらない表情に、なんだ、と少女たちの肩が下がる。
「ちょっとセリス様と話して、聞いておきたいことがあっただけ。ユリア、ここじゃ外野がうるさいから、ちょっと時間ある?」
はい、とそっと立ち上がり、ユリアは少し悩んでからこっそり例の魔道書をストールで包んで持ち出した。
リザイアの書について、まだラナにもラクチェにも話していなかった。なんとなく気が咎めたのか、気乗りがしないのか。自分でもはっきりとしないので理由は分からないものの、まだ触れられたくないと思ったのだ。
だがきっとデルムッドの話とはそれだろう。あの時、素直に受け取れなかったことをセリスが心配したのだろう。そしてデルムッドに相談した。
案の定そうだとデルムッドは言う。
場所は、人目が付かないほうがいいだろうと、あまり使われない北の廊下に備え付けられた長椅子だ。横並びで、少しだけ距離を開けて腰かける。
夕方はさほど寒くなかったが、夜になってみれば北の廊下は風が入るのか、足元はほんのり寒さがある。魔道書を覆ったまま、ユリアはストールで器用に脚を隠した。
「セリス様から聞いたんだ、昼間……じゃなくて、夕方のこと」
「はい」
「なんだか思いつめた感じだったから、って。別に事情を聴けと言われたわけじゃなくて、そこからは俺の勝手な判断なんだけど」
ユリアは太ももの上の、ストールに隠された魔道書の堅い表紙に両手を載せる。刻印は、分厚い布の上からでも感じ取れる。視線をそらしたいのに、なぜか本の形のふくらみからユリアは目をそらせないでいた。
「ご心配をおかけして、すみません」
「謝ることじゃないよ。勝手に俺が気になっているだけだから」
「では、……ありがとうございます」
デルムッドがどんな表情をしたのかは見ていない。だが少しだけ沈黙があった後に、優しく微笑む吐息が聞こえた。
「光の魔道書を渡されたって」
「はい、リザイアという……デルムッドさんは、光の魔道書をご存知ですか?」
考えると、ユリアの表情も声もかたくなってしまう。本当ならば、余計な心配をかけないために無理やりにでも笑って明るい声を出すべきなのだろう。嬉しいのだと。セリスが自分のことを考えてくれて、価値のあるものをわざわざ渡してくれて。しかも手ずから。忙しい時間に、赴いてくれて。
しかし偽れなかった。
いや、セリスの行動はとても嬉しい。迷惑をかけたくないと常に思っているし、できることは増やしたい。時間を割かせてしまった申し訳なさはあるが、きっとその価値があるのだとセリスは思ってくれたのだと。
嬉しいのだが、それ以上に魔道書の存在が重かった。
のしかかってくるようだ。実際の重さよりも、重たく感じる。ユリアの足の上にあって、今魔道書は長椅子にユリアを縫い留めているような気すらしてしまう。
「うーん、申し訳ないけれどよくわかっていない。俺は魔法剣は使えるけれど、魔道書はからきしだし、光の、となるとなおさら」
ユリアは少しためらた後に、渡されてから数時間の間でまとめたことをゆっくりと口に出してみる。
「リザイアは……他者の生気を吸い取る魔道書なんです。攻撃を与えた分、自分に付与される……」
ユリアも調べるまでどのような効力の魔道書なのか詳しく知っているわけではなかった。光の魔道書は、あまり流通していない。そして、光、といえど人に危害を加えるものだ。
強すぎる光が目に毒なように。夏の日差しが肌を焼きつくすように。
「それが、なんだか私には恐ろしくて……」
「効力が、ということ?」
デルムッドの声は優しい。
「それもあります。光の魔道書とはいえ、なんだか、生気を吸い取るだなんて、……禍々しいと思いませんか」
硬い声のユリアに対して、デルムッドの口調は変わらない。いつも通り、向き合ってユリアのペースに合わせてくれる。声音も、態度も。
「似たような魔法剣を知っているよ。大地の剣といったかな」
ユリアはゆっくりと顔を上げた。隣に座るデルムッドの、柔らかな金の髪を見上げる。明かりの乏しい北の廊下で、ぼんやりと見える優しい光のようだ。
「何も恐ろしいものではないよ。光の魔道書よりは、大地の剣のほうが普及しているしね。まあ、まだ珍しい範囲のものではあるけど。
それに、確実にユリアを守ってくれる。セリス様もそう判断したから、ユリアに使ってほしいんじゃないかな」
はい、と小さくうなずいた。
デルムッドもゆっくりと視線をユリアの顔に向ける。視線が絡むと、赤い瞳を細めて笑う。
「それは分かります。今のままで、私は足手まといになりますもの。回復だけでない手段があるというのはとても……」
それ以上の言葉を継げなかった。視線はまた手元に向かってしまう。硬い手触り、光の刻印。
デルムッドの視線がそこに向くのがわかる。刻印をなぞるユリアの指先に。
「ユリアは、不安?」
小さな声だった。かすれて聞こえる、いつもよりも少し低い声。肌をなぞられるように、優しいささやき。
「……不安です。怖いんです、私。……デルムッドさんやラクチェたち、セリス様もそうですけれど、みんな戦っているのにこんなことを考えるのも卑怯だと思うんですけれど……。怖いんです」
認めてしまえば、ゆっくりではあるものの言葉は途切れることなく出てきた。自分でも驚くほどに、これまではっきりしなかった感情が口から滑り出す。
「戦うことよりも、自分が、誰かを傷つけるのが怖いんです。人を殺すのが怖いんです。歯止めが利かなくなりそうで、なんだか、とても、許されないことをしているようで。
光の……光の魔道書なのに、なんだか、仄暗い奥底に禍々しい何かが潜んでいるような気がして。でもそれが、リザイアのものなのか、私の奥底にあるものなのかがわからなくて」
そうだ、怖かったのだ。一度線を越えてしまえば後戻りできなくなるようで、歯止めが利かなくなるようで。
人を殺すということ。殺めること。危害を加えるということ。やらなくてはいけないとわかっているのに、皆やっていることなのに、しなくては自分の身が危ないというのに、躊躇があるのだ。
告白の間も指は絶えず刻印をなぞっている。例えばこの書が違うものであったなら、そうは思わなかったのだろうか。ならばユリアの危惧する不安はリザイアにある。しかしそうでないなら。
きっとユリアはそれが一番怖いのだ。
過去を忘れてしまった自分。なぜ、何を忘れてしまったのかもわからず、まったく思い出せない昔のこと。
手放した過去が、恐ろしい何かだったならば。一線を越えることで、触れてしまうことになるのなら。
ユリアは今のユリアではなくなってしまうのではないかと、恐ろしくて。
「少し、だけど。わかるよ」
デルムッドはわざとらしく大きな伸びをした。背筋がしなり、手を組んで延ばした腕が高く天井へ向かう。
「俺も人を殺すのは怖いよ。嫌だよ。できることならばそんなことしたくないし、戦わずに済むならそれのほうがいいと思っている。剣を持つのは好きだし、練習も好きだけど、実戦はそんなに好きじゃない。みんなそうだよ。死神だなんて揶揄されることがあるけど、スカサハとラクチェも嫌だって言ってる。最近は、口にしないように努めてるけど」
デルムッドは手をほどき、ゆっくりとストールに触れた。魔道書の上に。刻印を撫でていたユリアの指と触れる。ユリアよりもわずかに高い体温。
「それにやっぱり許されないことだと思う。何に許されないのか、は分からないけれど。やってはいけないことだと思っているよ、そう簡単に他人の命なんて左右していいもんじゃない。
それに人を殺したいわけじゃない、目的は圧制からの解放だし、帝国の間違いを正すことだ。子供狩りをやめてほしい、イザークの弾圧とか一方的な重税とか、そういうことをやめてほしい。その手段がたまたま戦いになっただけで、もしも対話で和平が築けるならそれを選ぶよ、もちろん。だめだから、聞く耳を持ってもらえないから、仕方なしに戦うだけだ。でも帝国兵だって、人だ。俺と何ら変わりないだろう。家族がいて、友人がいて、もともとは普通に生活していたのを、たまたま兵士になったから、剣を持ってしまったから戦わざるを得なくなっただけで。
俺たち解放軍のいったい何を知っているのかな、と思うことが多いよ。あいつら……ごめん、帝国兵は、解放軍の主義も主張も、どんな信念なのかもわかってない。もしかしたら、領主は別だけど、兵士たち、下の人たちは話を聞いてくれるかもしれない。力になってくれるかもしれない。
もっとも、それだけが殺したくない理由ではないけどね」
デルムッドの口調はゆったりしていたけれど、これまでになく熱がこもっていた。一度ユリアの顔を見てかすかにほほ笑んでからは、夜の空をじっと見つめている。そこに明確な何かがあるように。
ユリアには何も見えなかった、ただ空があるだけだ。
デルムッドが見ているのは、きっと、それこそが彼の言う解放軍の信念で、主張で、主義なのだろう。
「これは俺の一意見で、解放軍としてのものではないけれどね」
そこから再びユリアを見つめる。心地よく細められた赤い瞳は澄んでいて、夜闇にもかかわらずキラキラと輝いて見えた。
信じるものがある、貫くものがあると、こんなにもまっすぐな瞳を持つものなのかとユリアは感じ入った。ユリアにはもたぬものだった。
足元が揺らぎそうなユリアとは違う。全く違っている。
「デルムッドさんは、怖いですか」
「人を殺すこと? うん、怖い」
触れ合っていた指先が、ユリアの手の甲をやさしく撫でる。包み込まれる感触にユリアは目を閉じた。
デルムッドの言い方は、殺すことそのもの自体が怖いと聞こえた。きっとそうなのだろう。命のやりとり。確かにユリアはそれも怖かった。
それ以上に、人を害してしまえばこれまでの自分が瓦解してしまうような、そんな不安がユリアを支配する。その恐怖は、ないのだろう。
デルムッドはしっかりと地に足をつけ、目指すべき星を持ってるのだ。
ユリアにはそれがない。足元はきっと日々だらけの細い崖で、そこを目隠しで歩かされるような恐ろしさだ。
なぜそう思うのかもわからないけれど。
「……私もです」
「うん。ごめんね、ユリアのいう、奥底にあるものっていうのは、わからないけれど。
でも、力におぼれる奴は何度も見たよ。人を殺すことが権力の象徴だと、快楽のために見せしめに罪なき民を処刑する輩。……慢心が、そうするのかもしれないけれど」
ユリアが不安げに目を開くと、デルムッドの瞳は澄んだまま変わらずユリアを見つめている。
「そうだとしたら、もしもユリアの不安がそれに類するものなら。わからない状態で言ってごめんね、だけれども、それなら俺が……俺たちが、ユリアを見ているから。大丈夫だよ」
「デルムッドさん」
そのデルムッドの意見は案外近いのかもしれない、とユリアはそっと息を吐く。
権力がないにしろ、魔道書を持ち悠々と人を害せるとすれば、それは優位に立ったということだ。慢心で、おかしくなることもあるだろう。人が変わるとはよくいうもので、権力や財力、武力など身の丈に合わぬものは狂わせていくのだ。
きっとそのことが怖いのだろう。
そうだとわかると、心の重荷が少し軽くなった気がする。見えない不安は恐怖だが、全貌でないにせよ外形が少しでも見えるようになれば不安は少なくなる。
魔道書を扱うことに対して前向きになったわけではないが、数刻前にセリスから手渡された時の薄暗い気持ちはなくなっていた。
「ありがとうございます」
言葉が軽やかに唇から飛び出す。そのことに少し自分で笑ってしまった。なんて現金なのだろう。
「よかった、元気になったみたいだね」
デルムッドは重ねていた手を放し、行儀よく自分の膝の上に戻す。
「はい、デルムッドさんにお話を聞いてもらえてよかったです」
「一方的に問い詰めちゃったから、そういってもらえてよかった」
「いいえ、私、あのままだったら一人で悩みこんでしまっていました。本当に、良かったです」
ユリアはストールに隠していたリザイアの魔道書を取り出した。象牙色の堅い本は、昼間よりも少しだけ軽く感じられる。本当に、何て単純なのだろう。
「まだ怖いですけれど、それでも私、頑張れると思います」
頷いて、デルムッドはもう一度、よかった、と微笑んだ。
多少は前向きになれたユリアだったが、結局しばらく戦闘でリザイアを使うことはなかった。ただ万が一のために持ち歩く重たい本でしかなかった。
魔道書と杖を同時に持ちながら戦場を移動するのは慣れるまで一苦労だ。
ラナは何かと魔道書を使う。前線で活躍する回復役なのだ。ユリアは中央から後方が多い。戦慣れしているからこその役割分担だ。
ああは言ったものの、やはり戦場で、敵と向かい合うと思うとユリアは恐ろしくなる。想像だけで指先が震えるのだから、実際に向かい合ってしてしまえば、きっと魔道書をめくることもなくやられてしまうのではないか、とも思う。
その分何度も魔道書を読み込んだ。どうせやるならばという思いがある。慣れぬ魔道書をいきなり使用するよりも、発することはなくても理解の深まった物の方が操れると思う。
そうすれば命までも奪わずに、戦えぬ、という状況にすることが可能なのではないかと思う。
あの夜、ラナとラクチェの待つ部屋に戻ったユリアは同室の二人にデルムッドに話したことをかいつまんで打ち明けた。
魔道書をもらった、しかし使うのが、人を殺すことが怖いのだと。
ラクチェもラナも優しかった。デルムッドか言ったように、彼女たちも嫌なのだといった。
「あたしは、だから、なるべく殺さないように心掛けてる。すごく難しいし、いっそのこと、と思うこともあるけれど。でも、腕の剣を切っただけ、足の骨を折っただけ。そうやって動けなくするだけ、攻撃できなくするだけでも、戦意喪失することは多いよ。加減がすごく難しいねってスカサハとよく話してる。セリス様? わからない、どう思ってるんだろう。あたしはこのことについてセリス様に話したことはないな。スカはどうだろ、男同士の会話ってやつ?」
「それは男同士とか関係ないんじゃないのかしら。私はお母さま……腕のいいプリーストだったんだけれどもね、貴族の出自っていうのがあったのかもしれないけれど、あまり血なまぐさいのは好きではなかったから。私たち、そういうところがあるのかもしれないわね」
何をバカなことを言っているのだと、戦争なのだ、解放のための戦いに腑抜けたことを言うなと、そういう意見が出ないことにユリアは内心ほっとしていた。
どこまでこの考えが通用するのかはわからないけれど、自分の、殺したくないなどという気弱な意見を尊重してくれる仲間がいることがとてもありがたい。
だけど、とラクチェはいう。
「あたしでも、そういうことやってるとヤンヤ言われたりするからあんまり外では口にしないほうがいいと思う。ほんと、……とか……とかに割と言われるのよ、ラナは? ない、そうか。まあね、わかんなくはないんだよね、あたしだって一応イザークの出身だし、割と虐げられてきたしね。帝国、っていうかドズルに恨みもあったけど、でもやっぱり、だからって帝国兵は皆殺しっていう意見も違うと思うんだよねぇ、むずかしい」
ラクチェが怒涛の意見を述べれば、でもそれは、とラナがきりりと目じりを上げて討論が始まる。ユリアは二人の早いペースに少しだけついていけずに討論の行方を見守った。
討論は結局、反対意見を出せる人がいないから変な方向にすすんでユリアが小さく欠伸をしたことでお開きになった。
邪魔してしまったかと肩身の狭い思いをしたが、すぐにラナが、止めてくれてありがとうとさっきまでの覇気はどこへ、疲れた顔で謝辞を述べた。
「そんな」
「わかってるの、ついついね、ユリアをおいて盛り上がっちゃってるって。ラクチェとだとつい、止められなくてつかれてるの、私たち。バカみたいよね。ほんとうにありがとう」
「……はい」
解放軍に様々な考えの人がいることはよくわかった。あのラクチェにまで文句を言う人がいるのだから、なるほどここで受け入れられても他にはどうだかわからない。
文句をいう人たちは、怖くないのだろうか。力におぼれること。人の命を奪うこと。話を聞いてみたい気もするが、きっと批判されてしまうのだろう。
だがきっと、ラクチェが名を上げていた批判的な意見の彼らも、デルムッドのように目指すべき信念を持っているのだろう。その信念はデルムッドが言っていた解放軍の信念とは違うかもしれないが、大筋はきっと逸れていない。
「とにかく、無理はしないでね。さ、寝ましょう」
ほんと疲れたわ、とあくびをかみ殺すラナにも、きっと信念があるのだろう。そうね、寝よ、と肩を回すラクチェにも。
しっかりと両足を力強く地面につけ。目指す星を掲げて目標へと手を伸ばし。
ユリアはどうだろう。
いまだ悩んでしまうのは、敵に向かい合っていないからだろうか。それともやはり自分が信じられないからか。
そう、ユリアはいまいち自分を信じ切ることがでいなかった。それはきっと思い出せない過去にある、と胸の奥で囁きが聞こる。思い出したほうがいいことなのかもわからない、ユリアの昔。過去のこと。
ユリアがリザイアを敵に放った時に、その扉が開いてしまったら。恐ろしいものだったら。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
きっとそんなことはない、と布団をかぶって目を閉じる。きっとそんなことはない。ユリアが恐れているのは力におびえることで、ただ単に人を傷つけてしまうことだ。そうだ、それはとても恐ろしいこと。
瞼の裏の暗闇に、きらりと輝く星はない。
溜息に似た息を長く吐くと、スっとユリアの意識は途切れた。
それから何度も夜を迎え、朝になった。戦闘は続き、少しずつ解放軍は場所を移す。帝国にいわせればきっと侵略を進めているというのだろう。解放軍からすれば正当な進軍で、解放だ。
帝国からの解放を。それが解放軍の一番の信念だ。
歪んだ圧政からの解放を。極悪非道な、子供狩りを行うようなねじまがった領主から。血に飢えた帝国から。
そうだ、とユリアは思う。それは正しいことだ。困っているんだもの、つらいんだもの、手助けをできるなら自分はそれを行うべきだ。できることを行うだけだ。
信念はなくとも、歩む道は少しずつはっきりしている気がする。少しずつリザイアの書を読み深めるたびに、今日も使わずに済んだと安堵するたびに、まだ大丈夫だと安堵している。
いずれ来るのは確実だが、それが今日ではなかったことに感謝をささげる。そんな日々が続いた。
そして終わった。
もう少し劇的にその日を迎えるものだと思っていたけれど、それまで、ユリアがリザイアの書を使うまでは何ら今までと変わらなかった。前線から少し退いた兵に、杖をあてがう。優しく熱量のこもった光で傷をいやす。
次から次へ、けが人はやってくる。傷が癒えるとまた前線へと進む。
ほかに考える暇もなくユリアは無心で杖をふるった。気力が枯渇する前に杖が壊れるのではないかとひやひやしながら、最後の一人の傷をいやす。
ありがとう、と踵を返した兵士を見送ったその時、ユリアの足を一本の矢が深々と貫いた。
あまりの衝撃に声が出ない。痛みに、震えた。痛みが熱になってユリアを襲う。右足に力が入らないが、膝をつこうとすると傷口に障って声なき悲鳴を上げてしまう。立つこともうずくまることもままならない。涙目で必死に悲鳴をかみ殺して、どうにか楽な姿勢を探す。
第二矢がユリアの袖口をかすめて地に刺さった。
必死に射手を探すと、少し高台の上、岩に隠れて煌めく鏃が目に入った。
ユリアが気が付いたことを察したのだろうか、光を反射して鏃が少し動くのがわかる。狙いをつけられている、と全身で理解した。逃げなければ。いや、この足では逃げられはしない。では。
ここで死ぬのだ。
――いや、まだ死ねない。死ぬわけにはいかない。
とっさにユリアは、ただの荷物に成り果てていたリザイアのページを繰った。ユリアの唇が素早く紡ぐ詠唱と共に、何度も指でなぞった表紙の刻印が光を宿す。
魔道は、弓よりも早かった。
確かに敵は矢を引き放っていた、しかしユリアの元に届く前に、ユリアの放ったリザイアの一撃が相手に当たっていた。
低い男の悲鳴が聞こえて、情けない軌道の矢がひらりと宙を舞う。スッと降り注ぐようにユリアの足元に熱が宿り、気が付けば足の痛みはない。
不思議に思って、すぐに分かった。
リザイアの効力だ。ユリアが敵に与えた威力分だけ、ユリアの傷が癒える。ユリアが一体どれだけのダメージを敵兵に与えたのかはわからないが、少なくともユリアの傷と同じか、それ以上の被害なのだろう。
痛みが治まったことに正直ほっとした。安堵した。自由に動ける、痛みがなく支障がないことがこれほどに素晴らしいと思ったことはない。
思えばユリアは、戦場で傷をいやすだけで、ケガをすることもなければその痛みも知らなかった。どうやって傷が癒えるのか、癒されたことがないからわからなかった。
それを知ったと同時に、どっと恐怖が押し寄せる。
あの痛み、あの苦痛、声も出ないわけのわからなさ。あれを今、ユリアが敵に与えた。
鼓動が激しく高鳴っているのに、血の気が引いた。視界が暗くなり、再び足元がおぼつかなくなってしまう。立っているのが辛い。
思考が落ち着かない。何を思えばいいのだろう、生きていることの安堵なのか、とうとうやってしまったことへの恐怖と懺悔か。
どうすればいいのか。癒しに行くか。敵兵を。癒したからどうするというのだ、慈悲を与えるのか、そしてまた戦場で敵としてまみえるのか。それは何という愚かな行為だろう。
しかしこのまま放っておいて何になるのだろうか。運よく仲間の兵に回収されればいいものを、捨て置かれればやはり彼は死ぬ。
ユリアが殺す。結果的にも。
いや、もう死んでいるかもしれない。リザイアは光の魔道書のなかでも高位のものだ。与えた威力分を回復できるという禍々しさもその一因ながら、それだけ操るのが難しく、また威力があるということだ。
既に殺したかもしれない。
既にユリアは体を起こすのもつらく、草のまばらな地面に膝をつき、両手で崩れ落ちそうな体をどうにか支えていた。肩を上下させて必死に息をする。
地の上に流れた銀紫の髪を、沿うように一匹の蟻が歩んでいる。眉根を寄せて、目を閉じた。
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