不動の星


「凄いじゃないか、ユリア。よく頑張ったね、本当に」
 少し疲れのにじむ声だった。ユリアが振り返ると、陰になった廊下の隅から土煙に汚れた金髪を撫でつけてデルムッドが進み出た。軽く右足を引きずっている、怪我でもしてしまったのだろうか。
 デルムッドは傍までくるとへたり込んだままのユリアに手を差し伸べてくれた。汚れた騎士の手袋をぼんやりと見つめてから、ありがとうございます、とユリアは重たい動作で掌を重ねる。
 デルムッドは力強く引き上げてくれた。反動で、立ち上がったユリアの頬がデルムッドの胸当てに軽く触れた。冷たい金属の感触に、ぼけていた頭が引き締まる気がしてくる。
「よく、頑張った」
 もう一度繰り返させる言葉にゆっくりと顔を上げると、赤黒いデルムッドの瞳が、あまり感情の色を出さずにユリアを見下ろしていた。
 嫌味だろうか。
 そうだとしても、それを口にする気にはなれなかった。
 繋がれたままの手を握ると、敵わない大きさのデルムッドの手がやけにやさしく握り返してきた。
「ええ」
 小さく相槌を打つ。それ以上ふさわしい言葉は見つからなかった。
 この言葉を言われたのは二度目だ。以前は、まだユリアが解放軍に馴染む前だ。養父に連れられ、いわばユリアの意志を無視して参加させられた集団は、良くも悪くもユリアの見知ったものと大きくかけ離れていた。
 そもそもそれまで、記憶をなくしたユリアが見知ったものなどほとんどなかったが、集団で行動するということ自体が初めてだったのだ。
 たとえば同世代の男女が沢山いることも、交流することも、複数人が同じ部屋で寝泊まりすることも、食事中に会話をしていいことも初めてだったのだ。
 養父がユリアを託した人物はセリスだったが、彼は解放軍の代表のためにユリアは転々とし、結局同職ということでラナの世話になることになった。
 生活や解放軍での常識はラナや同室のラクチェから教わった。同世代の女性同士の会話も少し覚えたが、ラナとラクチェは姉妹同然の幼馴染ということもあり、距離感はつかめずにいる。
 幼馴染はセリスも同じだ、と教わり、他三人の幼馴染の男性陣とも顔を合わせた。何かと気を使ってくれる彼らと交流することで、ユリアは少しずつ人と会話ができるようになった。
 すこしだけ気が付いたことがある。
 ユリアが人よりも者を知らないのは、記憶を失っているからだけではないということ。養父との隠遁生活がきっと異常だったのだろうということ。
 しかしそれが嫌だったわけではない。愛情と言えるかはわからないが、ユリアは確かに養父に感謝を感じていた。
 養父はラナやラナの幼馴染たちにも手を尽くしていたようで、おそらくユリアの元から養父が姿を消していた時期を照らせば重なるのだろう。
 それに気が付いたラナは、少しだけ照れた表情で笑った。胸元でこすり合わせた爪の先は昨晩切りそろえたのだろう、まだ短い。
「じゃあ私たちも、少し遠いけれども姉妹も同然ね」
「ええと」
「レヴィン様に育てられたも同じ、ってラナは言いたいの」
 こまったユリアを見かねてラクチェが肩をすくめた。慌ててラナが頷いた。
「そうですね」
 ユリアもラナをまねて微笑んだ。ラナは声を出して笑ってユリアの手を取る。驚きの声を発すると、ラクチェも喉もとで楽しそうに笑った。
 養父に育てられたも同じ、というけれど、ラナたちは別に養育者がいた。大家族だったと聞いている。ラナの実母を除いて、皆解放軍に参戦したのだという。
 だからだろうか、解放軍という集団に対して、ラナもラクチェも親身だった。献身的であったし、解放軍を守ろうという意識があった。
 ラナもラクチェも、彼女たちの幼馴染も人当たりが良く、皆の良い相談相手になっていた。その朗らかさは集団の中で育ったからだろうか、と感じてしまう。
 人と話すのが怖い、というほどでもないが、ユリアはたくさんの人と同時に話すのは苦手だ。。一人一人と向かい合って話すのでないと、どうにもついていけない。
 それを察してくれるのは、デルムッドだ。デルムッドはユリアが幼馴染たちと一緒にいるときにも、向かい合って話しかけてくれることが多かった。そしてそのまま、ゆっくりなユリアに合わせて会話を進めてくれる。
 それはユリアに心地よかったし、何よりもありがたかった。
 実際に集団の中にいるデルムッドは、快活でほかの人たちと変わらないほどに元気だ。ただ二人で話すときに、すこしだけ静けさを持っているだけなのだろうけど。
 ラナやラクチェの放つ精彩さはユリアの持っていないものでとてもうらやましいが、やはりすぐに得られないそれを目指すよりも、ユリアはペースを合わせてくれるデルムッドの優しさが心地よかった。
 だからか、いつしか彼女たちに話せないようなことも、デルムッドに打ち明けるようになっていた。
 もしかしたらデルムッドの気安さが、ユリアのささやかな暴露をラナやラクチェに共有すると思わないわけでもない。しかしそれでもいいと思っていた。もっとも大層な話はしていない。不満はこれと言ってないのだ。
 不満はない。
 ないのだが、不安がある。慣れない環境に、知らぬ文化。戸惑いは日々、発芽する。それらを少し聞いてもらうだけだ。
 つたない話だが、デルムッドは静かに聞いてくれる。それがありがたかった。
 助言をくれることもある。ユリアはその都度そうですねと当たり障りのない言葉を返すのだった。

 

 


 ユリアの初陣が決まったのはイザーク城制圧の後のことだ。
 戦終わり、装束を解いただけのセリスが、疲労の色を少しだけにじませてユリアのところに赴いた。セリスがユリアと話をするのはそう多くなく、ましてや戦終わりという忙しい時分だったのでユリアは内心驚いていた。
「ユリア、大丈夫?」
「あ、セリス様……」
 額に張り付いた前髪をかき上げて、セリスは優しく微笑んだ。ユリアは仕事の手を止めてセリスを見上げた。
 初めて見たときもそう思ったものだが、整った、美しい顔をしている。面影に、なぜか心揺らぐものを感じることもある。その頬に血の飛沫を見つけた。
 夕方になって風が出てきている。炊事の煙と戦処理の煙が入り混じっている。肌寒さは感じない季節でよかったと思いながら、手元の水桶で手巾を濡らした。
「これを。セリス様、頬に……」
 言葉を濁したが、理解してくれたらしい。自分の頬で汚れた部位をそれとなく示すと、セリスはわずかに瞳を見開き頬を赤くする。力強く手巾で頬をこすった。
「ありがとう、どうにも締まらないね」
 ユリアは首を振った。汚れは落ちたが、力が強かったのだろう、頬はうっすらと赤い。
「ユリアにこれをあげる」
 差し出されたのは一冊の魔道書だった。埃でよごれた象牙色の表紙に刻まれた刻印は、光の魔道書の証左だ。
「イザークの城で見つけたんだ」
「これは……?」
 受け取ると、両手にずしりと伝わる重さがある。刻印を、指でなぞった。弧を描いて表紙の上を進む。
「リザイアという光の魔道書なんだって。きみには使えるよね」
「はい、光の魔道書なら」
「よかった」
 セリスは微笑んだ。花が咲いたような、という表現がよく似合う。周囲の空気までもが華やいで、香り立つような、男性を表すには申し訳ないほどに美しい微笑みだった。
 その頬はいまだ赤く、疲れが見えるというのに。
「これならきみを守ってくれるはずだ」
「セリス様……」
 戦場で回復役として動いていたのを心配してくれたのだろうか。身を守るすべはないが、自身を心配したことはなかった。身を守れたほうがいいのは確かだ。周囲に迷惑をかけなくて済む。
 事実、回復しかできぬ立場は敵兵に狙われれば終わりだという自覚はある。戦場の経験は乏しいが、自明のことだ。解放軍では、役割があるわけではないようだがそれとなく回復役を守るため、誰かが常に傍にいる。
 しかしユリアがこの魔道書をつかえるようになればその負担も減るだろう。回復役だからと狙ってきた敵兵を逆に懲らしめることもできる。
 ぞっとした。
「ユリア? 大丈夫かい?」
 セリスの手が肩に置かれ、はっとした。表情がこわばっているのが自分でもわかる。うまく微笑みを作れない。どうにか口元をゆがめ、はい、と答えてもセリスは怪訝そうな表情を隠さなかった。
「本当かい。あまり無理してはいけないよ。きみにはなれない戦いだったろうし」
「ええ、大丈夫です。がんばろうと思っただけです。セリス様、本当にありがとうございます」
 セリスを探す声が遠くから聞こえて、二人でその方角を向く。この声はスカサハだろうか。聞き覚えのある呼び声は、少しだけ怒気がこもっている。
「しまった。スカサハは怒らせると怖いんだ。ごめんね、もう行かなくちゃ」
「セリス様、わざわざすみませんでした。お忙しいのに」 
「いや、気にしないで」
 それじゃあ、と片手を上げてセリスは大声でスカサハに応える。遠くなる後姿をしばらく見守った後に、手元の魔道書に視線を落とした。
 知らず、表情が曇ってしまう。
 魔道書を持つ両手がじっとりと汗をかいてくる。光の魔道書。使えるが、実際に使ったことはない。やけに重みを感じる表紙を開き、数頁を目で追ってみる。
 眩暈がしそうだ。
 ゆっくりと表紙を閉じ、ユリアは深く息を吐いた。